【初心者向け】三国志の歴史をザックリなあらすじで解説!
「三国志」は、紀元2世紀末から3世紀(184年~280年)の中国の歴史・物語になります。
日本では、邪馬台国の卑弥呼の時代で、魏に朝貢しています。
中国の王朝である「後漢(ごかん)」から「魏(ぎ)」、「呉(ご)」、「蜀(しょく)」の
三国に分かれて争い、「晋(しん)」に統一されるまでの約100年間が舞台です。
(三国時代は、魏が建国した220年から、蜀が滅ぶまでの263年を指します。)
三国志を全く知らない人にも分かるよう、なるべく簡単にまとめてみました。
184年 黄巾の乱
後漢王朝末期、政治は腐敗し、民衆は困窮と飢餓に苦しんでいました。
朝廷に対する民衆の不満が高まる中で立ち上がったのが、張角率いる太平道という宗教団体です。
信者たちは、頭に黄色の布を巻いていたこともあり、黄巾党と呼ばれました。
朝廷は、何進を大将軍に任命し、黄巾党の反乱を鎮圧させようとしました。
全国に義勇兵を募り、その中には劉備たちもいました。
劉備は漢王室の血筋で、関羽と張飛と義兄弟の契りを交わして旗揚げし、義勇軍に入りました。
この劉備が、のちに蜀(蜀漢)の初代皇帝になります。
また、魏建国の祖である曹操、呉を建国する孫権の父である孫堅も参戦し、戦果を上げました。
英雄たちが姿を現す中、張角の病死や兄弟達の戦死により、黄巾の乱は終焉を迎えます。
189年~ 霊帝の死と董卓の台頭
黄巾の乱が鎮圧されても、残党が残っており、政治も乱れたままです。
189年に霊帝が崩御すると、外戚と宦官の勢力争いが激化しました。
少帝(劉弁)を即位させ、何進は実権を握りますが、宦官に暗殺されてしまいます。
この混乱に乗じて、台頭したのが董卓です。
皇帝である少帝を廃して、献帝(劉協)を即位させ、全権を握ります。
独裁者となって恐怖政治を行うようになり、各地の諸侯が立ち上がることになります。
190年 反董卓連合
曹操の呼びかけに諸侯が立ち上がり、袁紹を盟主として反董卓連合軍を結成しました。
劉備三兄弟や孫堅も参加しています。
董卓の義理の息子で猛将の呂布と劉備三兄弟の一騎打ちの後、呂布を退却させます。
汜水関と虎牢関での戦いに負けた董卓陣営は、洛陽で略奪の限りを尽くした後、火をかけて長安
に遷都しました。
董卓の横暴を憂いていた司徒の王允は、美女連環の計で、呂布に董卓暗殺をさせて成功します。
しかし、董卓配下の李傕と郭汜が長安を襲われ、王允は殺害され、呂布は逃げ落ちました。
191年~ 群雄割拠
反董卓連合軍は解散し、各諸侯は自領に帰還します。
そして、各地で群雄が勢力争いをするようになります。
曹操は、人材登用や政策、軍事強化を行い、長安から逃げ出した献帝を迎い入れ、大きな後ろ盾
を得ることになった曹操は、どんどん勢力を伸ばしていきます。
劉備は、公孫瓚に身を寄せ、曹操に襲われた徐州に救援し、一時期は徐州を領有していました。
徐州を呂布に奪われた後、曹操のもとに身を寄せ、呂布を亡ぼします。
曹操のもとを離れて独立を試みましたが、劉備三兄弟はそれぞれ離れ離れになってしまいます。
孫堅は、反董卓連合軍が解散した後、洛陽で手に入れた玉璽を持って荊州に戻ろうとします。
その途中で、袁紹の命令によって劉表の配下の黄祖に襲わせ、孫権は戦死しました。
子の孫策(孫権の兄)は、袁術のもとに身を寄せることになりました。
その後、孫策は玉璽と引き換えに袁術から兵を借り、軍師の周瑜らと共に江東を制覇します。
中華を制した曹操に対して、袁紹は公孫瓚らを打ち、華北に大きな勢力を誇っています。
のちに、曹操と袁紹が争うことになります。
200年~ 官渡の戦い~曹操華北平定
208年 赤壁の戦い
214年 劉備の益州制圧
219年 漢中王劉備と関羽の死
220年 魏建国
221年 蜀建国
222年 夷陵の戦い
225年 蜀の南蛮平定
229年 呉建国
234年 五丈原の戦いと諸葛亮の死
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