「もうひとつの三国志」天命の風、策謀の河を翔ける
「乱世に生まれ、乱世に逝く」
「郭嘉、字は奉孝」
後漢末期の動乱の中、天才軍師として歴史に名を刻んだ。
若くして慧眼を持ち、曹操と運命の出会いを果たす。
軍祭酒として仕え、その策略は幾度も曹操を勝利へ導いた。
呂布討伐、孫策の死の予見、官渡の戦略
郭嘉の知略は乱世の羅針盤だった。
その才気とは裏腹に、奔放な生き様を貫き、短い命を燃やし尽くした。
烏丸討伐の帰途、病に倒れ、曹操は深く嘆く。
「惜しいかな奉孝。奉孝がいれば、天下を獲れたはずだ。」
これは、乱世に咲き、乱世に散った男の物語。
第1章 郭嘉、奇跡の帰還と南征計画
死の匂いがする。
いや、まだ死んでいない。
嗅覚がはっきりしているのだから。
というより、自分の体から漂う腐臭こそが死を予感させるのだ。
高熱に浮かされた意識の中で、郭嘉は天幕の布が揺れる様子をぼんやりと眺めていた。
「奉孝、目を覚ましたか」
耳元で聞こえた声に、まぶたを開いた。
そこには老いた医者の姿があった。
黄色い頭巾を被り、長い髭を蓄えた男性だ。
私には見覚えがなかった。
「貴公が…華佗か」
乾いた喉で精一杯の声を絞り出した。
華佗の名は聞き及んでいた。
曹操様が招聘した名医。
「そうだ」
華佗は頷き、ゆっくりと郭嘉の脈を取った。
「奇妙な病だ。熱病のようだが、内臓が毒に侵されている。体内が炎と毒の戦場におっておる」
「勝敗の行方は?」
郭嘉は微かに笑みを浮かべた。
「賭けるならどちらだ?」
華佗は眉を寄せ、答えなかった。
そして、華佗は袋から草を取り出し、それをすり潰し始めた。
「曹公はどうしておられる?」
「南征の準備に忙しいのです」
華佗は手を止めずに答えた。
「しかし毎朝、貴殿の容態を確認している」
郭嘉は目を閉じた。
おそらく曹操様は荊州の劉表が死に、その子である劉琮が継いだという情報を得たのだろう。
今こそ南下するべき時。
郭嘉はこの病床で何もできない。
「曹公には、まだ私が必要だ…」
「それは貴殿が決めることではない」
華佗は粉にした薬草を小さな碗に入れ、お湯を注いだ。
「飲め。苦いが効く」
華佗に言われるまま、その薬を飲み干した。
想像通り苦かった。
死より苦いか?
いや、それはわからない。
だが、生きるためなら、この程度の苦さなど何ものでもない。
「休め」
華佗は立ち上がった。
「明日また来る」
翌朝、郭嘉の意識がはっきりしていた。
体の熱も若干引いていたようだ。
天幕の入り口から差し込む光が、いつもより眩しく感じる。
「奉孝」
天幕が開き、曹操様が入ってきた。
いつもの青い頭巾を被り、厳しい眼差しで郭嘉を見つめていた。
「閣下」
郭嘉は起き上がろうとしたが、曹操様の手の仕草でそのまま横になった。
「華佗が言うには、お前の容態が少し良くなったそうだ」
「はい。閣下のおかげです」
曹操様は椅子に腰掛け、郭嘉のことをじっと見つめた。
「荊州への出兵を決めた」
郭嘉の予想通りだ。
劉表の死は天が与えた好機。
南征するには今しかない。
「孫権は?」
郭嘉は尋ねた。
「まだ若い。父や兄ほどの器ではないだろう」
「過小評価は禁物です」
郭嘉は言った。
「若くとも孫権は聡明です。しかも周瑜という優れた軍師がいる」
曹操様は黙って聞いていた。
曹操は常に郭嘉の意見を尊重している。
それが郭嘉にとって最大の誇りであり、責任でもあった。
「南征の成否は、孫権をどう扱うかにかかっています」
郭嘉は続けた。
「孫権を味方につければ天下は我らのもの。敵に回せば…」
「難しい戦いになる」
曹操様が言葉を継いだ。
「はい。呉の水軍は侮れません」
曹操様は立ち上がり、天幕の外を眺めた。
「お前が早く回復して、共に南征できることを願う」
「必ず」
郭嘉は断言した。
「この郭奉孝、死の淵から戻り、閣下のお役に立ってみせます」
曹操様は微笑み、天幕を出て行った。
郭嘉は天井を見上げた。
死ぬわけにはいかない。
まだやるべきことがある。
曹操の野望を実現するために、郭嘉の頭脳が必要だった。
三日後、華佗の治療は驚くべき回復をみせ始めた。
熱は引き、体内の毒も少しずつ抜けていた。
少しながら歩けるようになり、天幕の外に出ることも許された。
「驚くべき回復ぶりだ」
華佗は郭嘉の脈を確認しながら言った。
「貴殿の生命力は並外れている」
「賭けに勝ったということか?」
郭嘉は笑った。
「まだだ」
華佗は厳しい表情を崩さなかった。
「完全に回復するまでは油断はできません」
だが、時は待ってくれない。
郭嘉は座り、筆を取った。
南征のための策を練らねばならない。
「奉孝」
一週間後、曹操様が再び訪れた。
荀彧も同行していた。
「閣下、荀令君」
郭嘉は起立して挨拶した。
もう立っていられる。
「見違えるようだ」
荀彧は微笑んだ。
「このまま回復すれば、南征に間に合うかもしれんな」
「南征には、私も同行します」
郭嘉は断言した。
「既に策を練っています」
曹操様と荀彧は顔を見合わせた。
「聞かせてみよ」
曹操様が言った。
郭嘉は地図を広げた。
「荊州制圧後、すぐに江東へ進軍するのではなく、荊州の統治を固めるべきです」
「時間の無駄ではないか?」
曹操様が眉を寄せた。
「いいえ。孫権は父や兄と違い、慎重派です。呉は我々の動向を見極めるでしょう。その間に荊州の民心を得て、兵糧を確保する。そして…」
「周瑜を警戒させない」
荀彧が私の意図を察した。
「はい」
郭嘉は頷いた。
「呉の警戒が緩んだところで一気に攻め込む。もしくは、呉が先に仕掛けてくるのを待つ」
曹操様は考え込んだ。
「劉備はどうする?」
「劉備は劉琮派と不和だと聞きます。荊州を追われれば、西の劉璋を頼るしかないでしょう」
郭嘉は言った。
「しかし、諸葛亮という軍師がいる。奴は劉備に孫権との同盟を勧めるはず」
「そうなれば厄介だな」
荀彧が言った。
「だからこそ、速やかに荊州を制圧し、劉備と孫権の連携を断つべきです」
郭嘉は続けた。
「できれば、劉備を先に潰す」
曹操はゆっくりと頷いた。
「よし、お前の策に従おう。だが、完全に回復するまでは無理をするな」
「閣下」
郭嘉は頭を下げた。
「必ずや閣下の期待に応えます」
曹操らが去った後、郭嘉は地図を見つめた。
荊州、そして江東。
この二つを制すれば、天下統一も夢ではない。
だが、そこには周瑜という障害がある。
そして諸葛亮…
郭嘉は微笑んだ。
これは頭脳戦。
策と策のぶつかり合い。
生き延びた以上、この勝負に負けるわけにはいかない。
月が変わり、郭嘉の体調はさらに回復した。
華佗は、郭嘉の治療を終えると、去っていった。
「奉孝」
夜、曹仁が天幕を訪れた。
「出発の準備ができている。明日、南に向けて軍を動かす」
「そうですか」
郭嘉は立ち上がった。
「私も同行する」
「大丈夫か?」
曹仁は心配そうに尋ねた。
「心配無用です」
私は頷いた。
「この郭奉孝、死の淵から戻った。この命、曹操様のためにある」
その夜、郭嘉は長い手紙を書いた。
南征における詳細な戦略だ。
兵の配置、進軍ルート、敵への対応策…あらゆる可能性を考慮に入れた。
そして最後に、こう記した。
「天命の風は北から南へ。我らがそれに乗るか、抗うかで運命は変わる。閣下の剣と私の策が揃えば、この風に乗って天下を取ることも夢ではない」
窓の外を見ると、星が瞬いていた。
明日から南征が始まる。
荊州、そして江東。
新たな戦場で、郭嘉の策謀が試される。
生きていてよかった。
この瞬間に立ち会えることを、郭嘉は心から感謝した。
死の淵から戻った男に、天は何を見せるつもりだろうか。
郭嘉は静かに笑った。
答えはすぐそこにある。
南の地で、我らを待っている。
第2章 同盟の影、火計の予兆
諸葛亮 隠者の決断
龍の爪のように曲がる五指山の尾根に、朝靄が垂れていた。
孔明と呼ばれる男の庵は、山の中腹に位置し、朝日が昇るたびに光を浴びる場所だった。
孔明こと諸葛亮は、庭の一角で天文盤を覗き込んでいた。
眺めていたのは、星図ではなく、そこに映し出された中原の情勢図だった。
「北方の星は南へ移り、さらに勢いを増すか」
諸葛亮は長い溜息をついた。
近頃よく見る悪夢の内容を思い出していた。
曹操の大軍が長江を渡り、南方を席巻する夢。
いや、もはや夢ではなく、現実に迫りつつある脅威だった。
荊州の劉表も病に伏せっている。
まもなく動乱が始まるだろう。
朝露に濡れた草を踏みしめる足音が聞こえた。
諸葛亮は振り返ることなく言った。
「元直、随分と早い訪問だな」
伝直とは徐庶のこと。
諸葛亮はゆっくりと立ち上がり、徐庶と対面した。
徐庶の顔には焦りの色が見えた。
「私の主君、劉玄徳公が、あなたにお目にかかりたいと申しております」
諸葛亮は静かに微笑んだ。
「三顧の礼とはいきませんでしたな」
「時が許しません。荊州情勢が日々変わっております。曹操軍は既に襄陽を目指しています。劉表の後継問題も混迷を深め、荊州はまさに風前の灯火」
諸葛亮は天文盤をそっと閉じた。
星々の配置が示す運命は、既に動き始めていた。
「わかりました。天命の風が吹き始めたようですな」
劉備本陣は新野の町にあった。
小さいながらも整然とした陣容に、諸葛亮は劉備という人物の一端を見た。
本陣に入ると、関羽と張飛が厳かに出迎えた。
二人の目には、警戒と期待が入り混じっていた。
「これぞ、諸葛孔明にございます」
徐庶が紹介した。
応接の間には、質素な身なりの中年の武人が座していた。
やや赤みがかった顔に情熱を秘めた目が特徴的だ。
この人こそが劉備玄徳だった。
劉備は立ち上がり、礼を尽くした。
「臥龍先生、かねてより高名は耳にしておりました。この乱世に、先生のような人材があってこそ、民の安寧が望めます」
諸葛亮は劉備の目をまっすぐに見た。
そこには権力への渇望ではなく、何か別のものが見えた。
「劉将軍、私はただの隠者に過ぎません。なぜ、このような者に白羽の矢を立てられたのでしょう」
劉備は少し考えてから口を開いた。
「天下三分の計をお聞きしたいのです」
諸葛亮は微かに目を見開いた。
誰が口外したのか。
孔明は密かに記していた戦略書のことを考えた。
「どなたから聞かれましたか」
「徐庶が、先生が『隆中対』という戦略を考えておられると」
諸葛亮は徐庶を見た。
徐庶は頷くだけだった。
「曹操は北方を統一し、南へ侵攻しようとしています。荊州も危機です。我らは如何にすべきか、先生のご高見を」
諸葛亮は沈黙した。
用意したいくつかの策の中から、最適なものを選ぶべき時が来たのだ。
「将軍、曹操の南征を防ぐには、まず呉との同盟が不可欠です。呉の孫権は若いながらも賢明。呉には水軍という強みがある。我らは陸上戦に長けています。互いの利点を活かせば、曹操の大軍も押し返せるでしょう」
劉備は熱心に聞き入った。
「そして、その後は?」
諸葛亮は静かに答えた。
「天下三分の計。曹操が北を治め、孫権が東を固め、そして将軍が西へ転じて基盤を築く。三国鼎立こそが、この乱世の安定をもたらす道です」
室内が静まり返った。
関羽が髭をなで、張飛が腕を組んだ。
「西とは…益州か」
劉備が呟いた。
「然り。益州の劉璋は柔弱。将軍の血族でありながら、治政の才に欠ける。将軍が代わって益州を治めれば、民も喜ぶでしょう」
劉備は長い沈黙の末、頷いた。
「先生の戦略、承知しました。早速、呉への使者を派遣しましょう」
諸葛亮は立ち上がった。
「その任、私にお任せください。孫権だけでなく、周瑜にも会う必要があります」
諸葛亮の薄い唇に、かすかな笑みが浮かんだ。
周瑜という名を口にするとき、特別な響きを感じていた。
同じ時代に生まれた天才への、敬意と対抗心。
曹操軍の動向を探る密偵を潜ませていた。
報せによると、曹操は許昌を発ち、大軍を引き連れて南へ向かっているという。
その軍勢は二十万とも。
諸葛亮は情報を整理しながら、船上で考えを巡らせていた。
江東へ向かう船は、長江の流れに乗って静かに進んでいた。
諸葛亮の胸には、隆中対の詳細が記された書が隠されていた。
それは天下三分の計を詳細に論じたものだが、呉との同盟を結ぶために、一部が修正されていた。
呉を刺激しないよう、江東の地を将来的に蜀が狙うという記述は削除されていた。
「策は策を呼び、謀は謀を生む」
諸葛亮は星空を見上げながら呟いた。
周瑜との対面は、将来の天下を左右する重要な瞬間となるだろう。
白い羽扇を手に取ると、ゆっくりと仰いだ。
扇の一振りごとに、風の流れが変わるように、歴史の流れも変えられる。
そう信じていた。
周瑜 水面に映る炎
柳の枝が水面を撫でる江南の春。
柔らかな微風が、周瑜の耳元で囁いた。
甲板に立ち、広がる長江の流れを眺めていた。
軍船の列は整然と並び、太陽の光を反射して輝いている。
周瑜の肩書きは水軍都督。
孫権が最も信頼を寄せる将の一人だ。
「都督、西からの使者が参りました」
陸遜が告げた。
周瑜は振り返りもせず、ただ波紋を眺め続けた。
「どこからの使いだ?」
「荊州の劉備麾下だそうです。諸葛亮という軍師だとか」
周瑜の瞳に、一瞬鋭い光が宿った。
「諸葛孔明か…」
その名は周瑜の耳にも届いていた。
隠者として名高く、戦略に長けていると言われる人物。
周瑜は柳の枝を一本折ると、水面に投げ入れた。
枝は水に浮かび、緩やかに流れていく。
「会おう」
周瑜の船室は、実用的でありながらも、どこか詩情を感じさせる空間だった。
壁には地図が掛けられ、机の上には巻物や簡が整然と並べられている。
一角には琴が置かれていた。
諸葛亮が入室すると、周瑜は琴から手を離し、立ち上がった。
二人は互いを一瞥しただけで、相手の本質を察したように思えた。
「諸葛先生、ようこそ。うわさに違わぬご風采」
周瑜の声は低く、整った調子を持っていた。
「周都督、お会いできて光栄です。その琴の音色も、評判どおりの美しさでしょうな」
諸葛亮は白い羽扇を手にしたまま、礼を交わした。
二人の間には、すでに見えない火花が散っているようだった。
「劉備将軍からのご用件とは?」
周瑜は単刀直入に問うた。
諸葛亮は穏やかに微笑み、懐から書状を取り出した。
「曹操が南下しています。二十万の大軍を率いて」
「その情報はすでに掴んでいる」
周瑜は冷静に答えた。
「では、我ら劉備軍と呉軍が手を組み、曹操を迎え撃つことが最善策であることも、理解されていることでしょう」
周瑜は黙って諸葛亮を見つめた。
その目は何かを計算しているようだった。
「具体的に何を提案されるのか」
諸葛亮は扇を広げ、地図を描くように指でなぞった。
「曹操軍は許昌を出発し、荊州へ向かっています。劉表の後継争いに乗じて、荊州を奪うつもりでしょう。荊州が落ちれば、次は江東です」
「つまり、先に手を打てというわけか」
諸葛亮は頷いた。
「呉には長江水軍という切り札がある。我らには関羽、張飛をはじめとする猛将がいる。互いの長所を生かせば、我らに勝機はある」
周瑜は黙って考えていた。
諸葛亮の言葉に誤りはない。
だが、心の奥底には違和感があった。
諸葛亮の真の狙いは何なのか。
単なる同盟なのか、それとも…。
「孫権君主に、この件を上申しよう」
周瑜はようやく口を開いた。
しかし、その目は諸葛亮を探るように見つめていた。
夜、江東の本営。
周瑜は孫権と二人きりで対話していた。
「主君、劉備軍との同盟は、一時的な策としては有効でしょう。しかし、劉備らの本当の狙いは何か…見極める必要があります」
孫権は鋭い眼光で周瑜を見た。
「周公瑾よ、諸葛亮をどう見る?」
「諸葛亮は…私と同じような男です」
周瑜は静かに言った。
「表面は穏やかでも、内に激しい炎を秘めている。諸葛亮は劉備のために大きな絵を描いている。おそらく我らを駒の一つとして」
孫権は黙って周瑜の言葉に耳を傾けた。
「しかし今は、曹操という共通の敵がいる。まずはその脅威に対処すべきでしょう」
「お前の考えは?」
周瑜は墨を含んだ筆を取り、床に簡単な地図を描いた。
「火計です」
そう言い切った周瑜の目が、炎のように輝いていた。
「曹操は北方の将。水戦に慣れていない。奴らを長江に誘い込み、火攻めにする。風向きを見極め、火船を放つのです」
孫権の目が見開かれた。
大胆で危険な作戦だった。
「しかし…それには曹操を油断させる必要がある」
周瑜は続けた。
「ここで劉備軍の協力が必要になる。諸葛亮にはまだ火計のことは明かしていませんが、奴なら理解するでしょう」
孫権は静かに頷いた。
「周公瑾、作戦の全権を与える。ただし、劉備軍との関係は注意せよ。今は同盟を結ぶとしても、将来的には…」
「承知しております。奴らもまた、我らを利用しようとしているのですから」
周瑜の表情に微かな笑みが浮かんだ。
翌日、周瑜は諸葛亮を再び自室に招いた。
昨日より打ち解けた雰囲気を装いながら、周瑜は同盟の詳細を話し合った。
しかし、火計については、明かさなかった。
「諸葛軍師、貴殿を信頼しているからこそ、率直に問いたい」
周瑜は突然話題を変えた。
「劉玄徳公の狙いは何か?」
諸葛亮は平然と答えた。
「漢室の再興です。曹操が実権を握る許昌では、それは叶いません。いずれ西へ進み、基盤を築く必要があるでしょう」
「西…益州か」
周瑜の目が細められた。
諸葛亮は微笑んだ。
「周都督は鋭い。そうです、益州は我らの拠点となり得る。しかし、そのためにはまず曹操の南進を防がねばなりません」
周瑜は黙って諸葛亮を見つめた。
真意を探っているようだった。
「では、荊州は?」
質問の真意を察した諸葛亮は、扇を仰ぎながら答えた。
「荊州の民が平和に暮らせるよう、最善を尽くすまでです」
あいまいな答え。
周瑜はそれ以上追及しなかった。
今は同盟が優先だ。
ただ、心の奥底では、すでに諸葛亮との次の対局を見据えていた。
「同盟の証として」
周瑜は立ち上がり、壁に掛けられた一振りの剣を取った。
「これを劉玄徳公へ。そして…」
周瑜は別の小箱を取り出した。
開くと、中には精巧な小さな船の模型があった。
それは火を放つ仕掛けが施されている。
「これは、私の考える作戦の一端です」
諸葛亮は船を手に取り、仕掛けを調べた。
すぐに周瑜の意図を理解したようだった。
「火計…」
諸葛亮は呟いた。
「ご名答」
周瑜は静かに微笑んだ。
「この先も、互いに知恵を出し合いましょう」
二人は形式的な礼を交わしたが、その目には警戒と尊敬が混在していた。
諸葛亮が立ち去ると、周瑜は再び琴を手に取った。
奏でられた曲は、穏やかな水面に火が広がるような、不思議な緊張感を帯びていた。
策謀、交錯する河
曹操の大軍が着々と南下する中、諸葛亮は劉備のもとへ帰還した。
呉との同盟は形となりつつあった。
劉備軍の本陣では、関羽が剣を研ぎながら、諸葛亮の報告に耳を傾けていた。
「孔明、周瑜という男は信用できるのか?」
関羽の問いに、諸葛亮は羽扇を静かに動かした。
「信用という言葉は、この局面には相応しくないでしょう。我らが呉を利用し、呉もまた我らを利用する。ただ、曹操という共通の敵がいる今は、互いの利害が一致しているのです」
劉備が静かに口を開いた。
「では、周瑜の火計とは?」
諸葛亮は頷いた。
「有効でしょう。しかし…」
諸葛亮は少し言葉を選んだ。
「周瑜は私に全てを明かしてはいません。別の読みがある。我らもまた、策を用意しておく必要があります」
劉備は黙って諸葛亮を見つめた。
諸葛亮を完全に信頼していた。
「孔明よ、お前の天下三分の計、今はそれに全力を尽くそう」
同じ頃、江東の船上では、周瑜も計略を練っていた。
側には魯粛がいた。
「公瑾、本当に劉備と手を組むのか?」
周瑜は静かに頷いた。
「今は必要だ。しかし、劉備らの真の狙いは荊州。諸葛亮はそれを隠しているが、私には見えている」
魯粛は懸念を示した。
「もし我らが勝利した後、劉備らが荊州に居座ったら?」
「その時は…その時の策がある」
周瑜の目が鋭く光った。
「まずは曹操を撃退し、そして次の一手だ」
魯粛は納得したように頷いた。
「火計の準備はどうだ?」
「着々と進めている。火船の数も増やした。風向きと流れを計算し、最適なタイミングを見極める」
周瑜は水面に映る月を見つめた。
その光景は風で揺れ、まるで炎のようにゆらめいていた。
月が変わり、局面は動いた。
曹操軍は荊州に侵攻。
劉表の死後、子・劉琮はあっさりと曹操に降伏した。
劉備軍は慌てて荊州を離れ、長坂の戦いを経て、江東を目指していた。
諸葛亮は船上から、遠くに見える炎を眺めていた。
曹操軍が焼き払った村々の火だろう。
劉備の民衆避難は成功したものの、軍としては大きな打撃を受けていた。
「天の風は我に非か…」
諸葛亮は静かに呟いた。
しかし、瞳には決意の炎が宿っていた。
これが終わりではない。
むしろ、真の戦いはこれからだ。
一方、周瑜は曹操軍の動向を細かく監視していた。
曹操は水軍を編成し始めていた。
北方の将軍が水戦を鍛錬し始めたことに、周瑜は眉をひそめた。
「予想より早い…しかし、まだ我らに分があるはずだ」
周瑜は命令を下した。
呉の水軍は、長江の要所である赤壁に集結せよ。
そして、劉備軍と合流せよ。
二人の軍師の考えが交錯する中、史上最大の合戦の幕が、静かに上がろうとしていた。
諸葛亮が江東に到着すると、周瑜の出迎えは予想より冷淡だった。
劉備軍の敗走は、同盟者としての価値を落としていたのだ。
「諸葛軍師、貴軍の状況は厳しいようだな」
周瑜の皮肉に、諸葛亮は平然と答えた。
「形勢は変わりましたが、我らの決意は変わりません。曹操の南進を止めるのが必須です」
周瑜は諸葛亮の言葉を聞きながら、ある計画を巡らせていた。
劉備軍の弱体化は、呉にとって好機とも言える。
曹操を撃退した後、荊州の支配権を得るには…。
一方、諸葛亮も周瑜の真意を探りながら、次の一手を考えていた。
呉の助けがなければ曹操に対抗できないが、あまり依存すれば、劉備の未来は危うい。
二人の軍師の間に流れる緊張は、表面上の同盟の誓いとは裏腹に、日に日に高まっていた。
それは、やがて大河となって、歴史を動かす力となるだろう。
夜、周瑜の船室。
周瑜と諸葛亮は、曹操軍への対策を話し合っていた。
地図の上には、小さな木片が置かれ、軍の配置が示されていた。
「曹操軍の弱点は、水戦の経験不足だ」
周瑜は言った。
「北方から来た兵は水戦に不向き。それを突けば…」
「火計が効果的でしょう」
諸葛亮が言葉を継いだ。
「私は曹操軍に内通者を送り、状況を探っています」
周瑜の目が光った。
「内通者?それは聞いていなかったな」
諸葛亮は微笑んだ。
「互いに全てを明かす必要はないでしょう」
一瞬の緊張が走った後、周瑜も微笑を返した。
「そうだな。互いの秘策があってこそ、相乗効果も生まれる」
二人は杯を交わし、表面上の協力を確認した。
心の内では、すでに次の戦いを見据えていた。
諸葛亮が立ち去ろうとしたとき、周瑜が一言、投げかけた。
「諸葛軍師、貴殿の『隆中対』とやらを、いつか拝見したいものだ」
諸葛亮の足が一瞬止まった。
そして、ゆっくりと振り返った。
「その時が来れば、お見せしましょう」
二人の視線が交差し、無言の火花が散った。
互いへの尊敬と対抗心が混じり合った、複雑な感情だった。
二人の頭上で、星々が輝いていた。
北斗七星が南を指し、天の川が東西を分断するように流れていた。
まるで天が三国の鼎立を予言しているかのようだった。
秋風が吹き始め、赤壁の丘に、落ち葉が舞い散った。
やがて、その場所が炎に包まれる日が来る。
その炎は三国の運命を変える火種となるだろう。
諸葛亮と周瑜、二人の軍師の頭脳戦は、ここからが本番だった。
第3章 赤壁決戦、分断と奇策
第一幕 郭嘉視点 謀略の網を張る
「君主よ、この軍船には人を最小限に配し、残りは藁人形で満たしましょう」
曹操は船の甲板に屹立し、郭嘉の提案を顔色一つ変えずに聞いていた。
郭嘉は微笑みながら、自らの説明を続けた。
自らの五体が今、ここにあることが未だに信じられない思いだった。
一年前、華佗の薬を飲み、死の淵から引き返してきた。
今、生命の賜物で曹操に奉ずることこそが、天命だった。
「船には藁人形を、そして陸路には本隊を。敵は水軍の強さを過信し、火計を企んでいる。奴らの計略を裏返し、分断してこそ勝機あり」
夏侯惇が眉をひそめた。
「フン。人形で敵を欺くとは、そのような小細工が通じるのか」
「敵は二つの軍。蜀と呉。同盟を組んではいるが、その絆は弱い」
郭嘉は笑みを浮かべ、碁盤を指差した。
「この碁石のように、陣形が分かれれば、各個撃破は容易い」
碁盤上、白黒の石が不自然な配置を作っていた。
郭嘉は軽やかに白い石を一つ打ち、黒石の集団を二つに分断した。
「先日、敵陣より密書が届きました。呉の内部、孫権側近から」
郭嘉は懐から絹布を取り出した。
「蜀漢と孫呉の間に、すでに亀裂があるとの報せが」
「その情報、信じるに足るのか」
曹仁が問うた。
「賭けの世界に身を置く者は、いつ賭けるかを知っています」
郭嘉は杯を掲げた。
「今こそ、大きく賭ける時。それが天命というものです」
「よかろう」
曹操は立ち上がり、川面を見つめた。
「奉孝の案を採用する。夏侯惇、曹仁は陸路の本隊を率いよ。張遼は船団を指揮し、敵の注意を引け」
郭嘉は窓から長江の流れを眺めた。
この河の中で、未来を見ていた。
赤壁での戦い…、負けられない。
ただ、勝ち方を調整するのみ。
完全勝利ではなく、要所を制する戦略的勝利を得る。
荊州を手に入れれば、南方への足掛かりになる。
三国鼎立の地図が、郭嘉の脳裏に浮かび上がった。
「曹孟徳」
郭嘉は遠くを見つめながら呟いた。
「火は火で消すこともできる。敵が火を放つなら、我らはそれを逆手に取る。分断し、攪乱し、混乱の中で荊州を制す」
郭嘉は碁盤を前に、もう一度石を打った。
「この一手で、局面は変わる」
暗闇の中、郭嘉の密偵が報告を続けていた。
「周瑜と諸葛亮、互いに警戒しつつも協力関係にあります。ただし……」
「続けろ」
郭嘉は杯を傾けながら促した。
「呉の内部、孫権と周瑜の間に確執が見え始めています。また、蜀の劉備と諸葛亮の間にも意見の相違があるようです」
郭嘉は笑みを漏らした。
「まさに碁盤の狭間だな。そこに一手を打てば……」
「また、周瑜は黄蓋を使って火攻めを計画中です。風向きを見計らって」
「風向きか」
郭嘉は長江の水面を見つめた。
「風は常に裏切る。人も同じだ」
夜が明ける前、郭嘉は密書を二通認めた。
一つは呉の孫権へ、もう一つは蜀の劉備へ。
それぞれ別の情報と計略。
同盟を揺るがすための種を蒔いた。
「風よ、天命の風よ」
郭嘉は桟橋に立ち、長江の水面に映る星々を見つめた。
「私のために吹け」
赤壁での決戦の時が迫っていた。
第二幕 周瑜視点 最後の炎
「時は来た」
周瑜は赤い甲冑に身を包み、船の舳先に立った。
風が髪をなびかせ、東方からの冷たい風が頬を撫でる。
五千の水軍を率い、長江の流れを見つめていた。
「周公瑾、風向きは安定せぬ」
魯粛が近寄り、低い声で告げた。
「天候が変わりやすい」
周瑜は微笑んだ。
「人の心と同じだな。変わりやすく、予測しがたい」
周瑜は呉の旗を見上げた。
かつて、孫策と共に夢見た天下。
友の死後、その遺志を継ぎ、弟の孫権を支えてきた。
そして今、北方からの巨大な敵に直面していた。
「黄蓋の準備は?」
「整っております。”借箭”の策も成功し、矢を集めました」
周瑜は頷いた。
諸葛亮の知略で曹操軍から矢を借りる策は見事に成功した。
しかし、心の奥では違和感があった。
あまりにも易々と。
曹操軍は何かを企んでいるのではないか。
「諸葛孔明からの報せは?」
「西風が強まると申しております。また、蜀軍は丘の上に陣取り、援護射撃の準備を整えています」
周瑜は長江を見渡した。
対岸には曹操の大船団が見える。
だが、何かがおかしい。
船の動きが不自然だ。
そして、陸路からの偵察では……
「曹操本隊の動きはどうだ?」
「それが」
魯粛は眉をひそめた。
「陸路に大軍の気配があります。船よりも多くの兵が……」
周瑜の目が細くなった。
「なるほど、分かった」
周瑜は甲板を歩き、思案した。
「曹操は水軍を囮にしている。本隊は陸路を進む。我らが火攻めで船団を焼き払っている間に、陸から攻め込む作戦だ」
「では、計画を変更しますか?」
周瑜は静かに首を振った。
「いや、火計は実行する。だが、一部変更する。黄蓋の攻撃隊は計画通りだ。しかし……」
周瑜は指示を続けた。
「甘寧に伝えろ。呂蒙と共に、我らの一部隊で蜀軍との間に位置せよ。曹操は我らの同盟を分断しようとしている。それを防がねばならぬ」
周瑜は手紙を取り出した。
「先ほど、孫権からの密使が届けた書簡だ。曹操から密書が届いたという。劉備が裏切る計画があるという内容だそうだ」
「そうでしたか」
魯粛はため息をついた。
「すぐに諸葛孔明に会わねば」
周瑜は決意を固めた。
「同盟を守るため、孔明と共に作戦を立て直す」
風が強まり、旗がより激しくなびいた。
周瑜は自らの琴を手に取った。
以前、諸葛亮と琴を弾き合ったとき、孔明の才に感銘を受けた。
今、その才が、共に曹操を撃退するために必要だった。
周瑜は琴弦を爪弾いた。
「風よ、吹け。だが、我らの火を消すな」
夕暮れ時、諸葛亮との会談から戻った周瑜は、最終準備を命じた。
「黄蓋、準備は良いか」
黄蓋は固く頷いた。
年老いた将の目には、決意の光が宿っていた。
「すべて整いました。この老骨に、最後の働きをさせてください」
周瑜は黄蓋の肩を叩いた。
「頼む。だが、無理はするな。作戦が成功したら、すぐに撤退せよ」
「変更点は?」
「諸葛孔明と協議した結果、火船は二手に分ける。一つは曹操の船団へ。もう一つは、陸路で進む曹操軍の沿岸部隊へ。海岸線の茂みも焼き払い、曹操軍の進軍を妨げる」
周瑜は諸葛亮との対話を思い出していた。
孔明も曹操軍の二正面作戦に気づいていた。
周瑜が懸念していた同様の情報
-劉備が裏切るという曹操からの偽情報-
が蜀にも届いていた。
「曹操は我らを分断しようとしている。ならば、より強固に結束せねばならぬ」
周瑜は長江を見つめ、夕陽が水面を赤く染めるのを見た。
まもなく本物の炎の色に代わる。
これが人生を決める戦いになるという直感があった。
「天命」
周瑜は呟いた。
「それは風のように変わるもの。だが、舵取りが上手ければ、どんな風も味方になる」
周瑜は指揮棒を掲げた。
「作戦、開始!」
第三幕 郭嘉・周瑜交互視点 荊州を巡る死闘
郭嘉視点
火の手が上がった。
赤壁の夜空を炎が照らし、長江の水面は赤く染まっていた。
郭嘉は丘の上から、その光景を冷静に見つめていた。
「計画通りです」
郭嘉は曹操に言った。
「奴らは火攻めを仕掛けてきた。しかし、我らの船には兵は最小限しかいない」
曹操は無言で頷いた。
眼差しは船団ではなく、荊州の心臓部へと向けられていた。
「張遼、曹仁の部隊は?」
「すでに動いています」
郭嘉は水を口に含み、答えた。
「呉軍が火攻めに集中している間に、我らは陸路から荊州の要所を制圧しています」
曹操の顔に微笑みが浮かんだ。
「敵は気づいているか?」
「周瑜は鋭い」
郭嘉は認めた。
「周瑜は我らの計略に気づき、対策を講じているでしょう。しかし…」
郭嘉は地図を指さした。
「荊州の北部と中部は、すでに我らのものです。周瑜らが気づいた時には、最重要拠点は我らの手中に」
夜風が吹き、郭嘉の髪を揺らした。
長江の火を見つめ、思った。
この炎の中で、三国の未来が形作られている。
郭嘉の脳裏には、今、明確な地図があった。
『曹操は北と中央、劉備は西、孫権の呉は東南』
三つの国が、それぞれの領域を持つ未来の姿だ。
「曹公」
郭嘉は静かに言った。
「全てを得ようとすれば、全てを失う。今宵の我らの目標は、荊州北部の確保。南部は一時的に譲るも、次なる一手の布石となる」
周瑜視点
火船が曹操の船団に激突し、炎は風にあおられて広がった。
周瑜は先頭の船から、その光景を見届けていた。
「黄蓋隊、撤退開始!」
周瑜は命じた。
だが、心の奥では確信があった。
この勝利は部分的なものに過ぎない。
曹操の主力は別にある。
「甘寧からの報告!」
伝令が駆け寄った。
「曹操軍、荊州北部に侵入!夏侯惇と曹仁が別動隊で攻め込んでいます!」
「やはり」
周瑜は顔を引き締めた。
「諸葛孔明に急報を!蜀軍と合流し、荊州中央を守らねばならぬ!」
風向きが変わった。
西風が強まり、船は東に流され始めた。
周瑜は直感した。
「これは運命の風」
このまま流されれば、荊州は分断される。
「全軍、進路を西へ!荊州北部へ向かえ!」
郭嘉視点
「周瑜が動きました」
報告を受け、郭嘉は笑みを浮かべた。
「周瑜は荊州北部へ向かっています。しかし——」
「時すでに遅し」
曹操は言葉を継いだ。
「張遼はすでに要塞を制圧している」
郭嘉は風の向きを確かめた。
「風が西に変わった。これは天の配剤。周瑜らの船は東に流され、我らの陸軍の動きは助けられる」
「蜀軍の動きは?」
「劉備と諸葛亮は、南部へ撤退しています。呉との連携を維持しようとしています。しかし、我らの偽情報で互いに疑心を抱き始めています」
郭嘉は微笑んだ。
「今宵の勝負は、もう決している」
周瑜視点
夜明け前、周瑜は厳しい現実を受け入れていた。
荊州北部は曹操軍の手に落ちた。
火攻めは成功したが、曹操の囮部隊にすぎなかった。
「我らは欺かれた」
周瑜は諸葛亮との会議で認めた。
諸葛亮は扇子を広げ、静かに言った。
「欺かれたのではない。半分は予測していた。だが、郭嘉の策は一歩先を行った」
周瑜は荊州の地図を見つめた。
「北部は失った。中央は争っている。我らに残されるのは……」
「南部」
諸葛亮が言葉を継いだ。
「我らと呉の領地とする」
周瑜は思案した。
全てを失ったわけではない。
曹操も全てを得たわけではない。
これが三国鼎立の始まりなのか。
「孔明」
周瑜は諸葛亮を見た。
「我らは共に、この局面を打開せねばならぬ」
最終場面 翌朝 郭嘉視点
朝日が昇り、長江の水面を黄金色に染めた。
夜の炎はすべて消え、残るのは焦げた船の残骸だけだった。
郭嘉は長江を見下ろす丘の上に立ち、荊州の地を見渡した。
北部の要所は魏の旗が翻り、中央は争奪戦の後、半分が魏のものとなった。
南部には蜀と呉の旗が見える。
「完璧な勝利ではない」
曹操が郭嘉の隣に立ち、言った。
「いいえ、これは計画通りです」
郭嘉は微笑んだ。
「荊州全土を取れば、呉と蜀は団結し、我らに対抗するでしょう。分断された荊州——これが三国の均衡を生み出します」
「均衡?」
曹操は眉を上げた。
「我は天下統一を目指しているのだぞ」
郭嘉は遠くを見つめ、言った。
「時は流れ、風は向きを変える。今は均衡の時。それが次なる一手の布石となる」
郭嘉は心の中で、碁盤を見ていた。
白石と黒石がそれぞれの領域を形成し、中央で小さな戦いを繰り広げている。
その形は美しく、均衡が保たれていた。
「曹公」
郭嘉は静かに言った。
「これは我らの勝利です。荊州の半分を得、敵を分断し——しかも司馬懿の軍が、今まさに次なる一手を打とうとしています」
長江の流れのように、運命は三国へと分かれ流れていく。
郭嘉には見えていた。
天命の風に乗り、策謀の河を翔ける三国の未来が。
「我らは負けていない」
郭嘉は確信を込めて言った。
「ただ、勝ち方を変えただけだ」
第4章 分裂と統治、新たな均衡
魯粛 蘇りの春
江南の柔らかな陽光が、長江の水面を金色に染め上げる朝だった。
魯粛は呉の本営・建業の船着場で、新たに編成された水軍の演習を見守っていた。
赤壁の戦いから三ヶ月。
傷は癒えつつあるが、心に刻まれた敗北の記憶は生々しい。
「子敬、そなたのご意見を聞かせてくれ」
孫権が穏やかに言った。
二十五歳の若き主君は、兄・孫策の遺志を継ぎ、江東の地を守る重責を担っている。
魯粛は孫権の冷静さに、今一度感服した。
「主君、我らは冬の嵐を潜り抜けました。今や春の芽吹きを待つ時です」
魯粛は遠くを見つめながら言った。
口調は常に柔らかく、しかしその言葉には一定の重みがあった。
「曹操は荊州を手に入れました。しかし、あの火計の結果、曹操軍も疲弊しています。曹操が内政に専念する今こそ、我らは再建と同盟強化の時」
孫権は静かに頷いた。
その傍らで周瑜が苦い表情を浮かべる。
赤壁の戦いでは、郭嘉の予測と分断策により、周瑜の火計は成功しなかった。
呉軍は甘寧や黄蓋ら勇将の奮闘で被害を最小限に抑えたが、荊州は捕られた。
「劉備との同盟は今後も続けるべきでしょうか」
周瑜が問いかけた。
「劉備は荊州を失い、いまや益州に逃れています。力なき同盟者に何の価値が?」
魯粛は穏やかに首を振った。
扇子を開きながら、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「公瑾、急ぐべきではありません。劉備軍には諸葛亮という知略の士がいる。劉備軍の勢力は小さくとも、曹操の南方の牽制となり得る存在です」
水面に映る雲影を見つめながら、魯粛は静かに続けた。
「水は流れを変えても、必ず海へと帰る。我らが求めるべきは、大河の如き悠久の戦略。目先の損得ではなく、流れを見極めることです」
孫権の眼に光が宿った。
魯粛の言葉に何かを感じ取ったようだ。
「子敬には知恵がある。では劉備との交渉を続けよう。だが同時に、北方の動向も探れ」
魯粛は頷き、心の中で一つの計を練り始めていた。
曹操軍の荊州統治、劉備軍の西遷、そして呉の再建。
ここに新たな均衡点を見出さねばならない。
それは魯粛の得意とする「調整」の技であった。
月明かりの下、魯粛は一艘の小舟に乗り、長江を上った。
かつて周瑜と訪れた地、劉備との会見の場所に向かっていた。
今夜、密かに劉備の使者と会う約束を取り付けていた。
船頭が艪を静かに動かし、岸辺に小舟を寄せる。
そこには一人の男が待っていた。
「馬良殿、お待たせしました」
魯粛は小舟から降り、劉備の参謀の一人である馬良と対面した。
若く聡明な男は、諸葛亮の信頼厚い副官である。
「子敬殿、危険を冒してまでの会見、感謝します」
二人は人目につかない林の中へと歩を進めた。
「劉備殿と諸葛軍師は無事に益州へ?」
魯粛が尋ねる。
「はい。しかし情勢は厳しい。張魯の漢中、劉璋の益州本土、どちらも我らに友好的ではありません」
馬良の声は低く沈んでいた。
魯粛は馬良の表情から、蜀軍の苦境を読み取った。
「では本題に入りましょう」
魯粛は扇子を閉じ、真剣な表情で言った。
「江東は劉備殿を見捨てません。しかし、我らにも回復の時が必要です」
「諸葛軍師も同じことを言っておりました。軍師は三年の猶予をいただきたいと」
魯粛は意外そうな表情を浮かべた。
「三年ですか」
「はい。三年で益州を安定させ、その後北伐の機会を窺うと」
魯粛は静かに微笑んだ。
諸葛亮の読みは自分の考えに近いものだった。
曹操は荊州統治に時間を要するだろう。
その間に力を蓄え、時機を待つ。
それが呉と蜀、両者の生き残る道だった。
「伝えてください。呉も三年で再起を図ると。それまでは相互不可侵で合意したいと」
馬良は頷き、二人は話し合いは続いた。
春の夜風が二人の間を通り過ぎる。
それは新たな同盟の息吹きのようでもあった。
「水の流れは見えずとも確かにあり、いずれ大河となって現れる」
魯粛が別れ際に言った言葉は、馬良の心に深く刻まれた。
建業に戻った魯粛は、周瑜との会合に臨んでいた。
呉の本営である城内の一室で、二人は向かい合っていた。
「子敬、劉備陣営との接触、成功したようだな」
周瑜の声には僅かな苛立ちが混じっていた。
魯粛の独断専行を咎めているのではなく、自身が担うべき役割を他者に任せざるを得ない状況への苛立ちだろう。
赤壁の戦いで負った傷が、周瑜の動きを制限していた。
「公瑾、悪しからず。緊急を要する事態だったのです」
魯粛は丁寧に頭を下げた。
二人の間には確かな信頼関係があった。
「報告を聞こう」
周瑜は杯に酒を注ぎながら言った。
魯粛は劉備陣営との協議内容を詳細に伝えた。
周瑜は黙って聞き、時折頷きながら思索に沈んだ。
「三年か…確かに現実的な時間だ」
周瑜は窓の外を見やった。
そこからは建業の街並みと、その向こうに広がる長江の流れが見えた。
「だが、曹操もただ時を過ごすわけではない。荊州の統治体制が固まれば、必ず江東に視線を向けるだろう」
魯粛は周瑜の懸念を理解していた。
二人の間には戦略の違いがあった。
周瑜は積極果敢な攻勢を好み、魯粛はより慎重な外交と内政充実を重視していた。
しかし、二人は互いの強みを認め合っていた。
「公瑾、曹操軍の荊州統治には綻びがあります」
魯粛は静かに切り出した。
自身の情報網から得た知見を伝える。
「曹操は北方からの移民政策を進めていますが、現地の豪族たちの反発は強い。また、張遼を前線に置きつつも、内政は司馬懿という新たな参謀に委ねているようです」
周瑜の眼が鋭く光った。
「司馬懿…名前は聞いたことがある。若いが老獪な策士と聞く」
「はい。郭嘉とは対照的な人物のようです。曹操はこの二人の参謀を両輪として使い分けている」
周瑜は沈黙し、再び杯を傾けた。
しばらくして、決意を込めた声で言った。
「三年、承知した。だがその間に我らは水軍を完全に再建し、北上の準備を整える。子敬、そなたには荊州の内情探索と蜀との連絡を任せよう」
魯粛は頷いた。
「海の波は穏やかになっても、水底の流れは止まりません。我らもその流れの一部となりましょう」
春の風が窓から吹き込み、二人の前に置かれた地図の一角をめくった。
魯粛は何かの予兆を感じ、静かに微笑んだ。
司馬懿 – 統治の糸
荊州・襄陽。
かつての劉表の本拠地に、曹操軍の旗が翻る。
司馬懿は城壁の上から街を一望していた。
二十八歳の司馬懿は、郭嘉に次ぐ参謀として、荊州統治の責務を担っていた。
「司馬公、報告です」
配下の参謀・陳矯が書類を携えて近づいてきた。
司馬懿は無言で目配せし、報告を促した。
白い扇子が、春の風に揺れる。
「南方各地の民心は不安定です。江陵周辺では、劉表への忠誠を示す者たちの抵抗が」
司馬懿は一瞬、目を細めた。
「数字を示せ」
「はい。徴税率は予定の六割。兵の徴募は三割程度です」
司馬懿は冷静に分析した。
司馬懿の思考は常に論理的で、感情の起伏は外に現れない。
「予想の範囲内だ。統治には時間を要する」
司馬懿は城壁から身を翻し、執務室へと向かった。
そこには荊州統治のための詳細な計画案が広げられていた。
「丞相からの指示は明確だ。荊州を安定させ、江東への備えを固めよ」
襄陽の政庁に集められた将兵たちに、司馬懿は淡々と説明した。
その声は静かだが、確かな威厳を帯びていた。
「張将軍、前線の警備を引き続き頼む」
張遼は頷いた。
張遼は赤壁の戦いで武勲を挙げ、曹操の信頼厚い将軍だった。
「曹仁将軍には内陸部の治安維持を。曹洪将軍には輸送路の確保を」
各将に任務を割り振りながら、司馬懿は脳裏で計算していた。
荊州は広大だ。
この地を完全に掌握するには、少なくとも一年を要するだろう。
その間に呉や蜀が再起を図る可能性もある。
限られた兵力で最大の効果を上げる。
それが司馬懿の課題だった。
「さらに」
司馬懿は声を落として続けた。
「民心掌握のため、税の一時軽減と、劉表の官吏の一部登用を進める」
この提案に、強硬派の将校から反発の声が上がった。
「なぜ敵の残党を用いる?不忠の者たちを粛清すべきでは」
司馬懿は感情を表に出さずに応じた。
「粛清は短期的な鎮圧には有効だ。だが我らが求めるのは長期的な統治」
司馬懿は白い扇子を開き、ゆっくりと言葉を選んだ。
「囲碁において、石は打つ場所が重要だ。同様に、政(まつりごと)も適材適所。知識を持つ者を活用することで、統治の網を素早く張れる」
司馬懿の説明は論理的で、反論の余地はなかった。
会議を終えた後、司馬懿は一人、窓から春の夕暮れを眺めていた。
(曹公の野望を支えるには、この地の安定が不可欠だ)
司馬懿は脳裏で囲碁の盤面を想像していた。
荊州は中央の要石。
ここを固めれば、次は江東か、それとも西の蜀か。
(郭嘉の読みでは、蜀を先に叩くべきとのこと。だが私見では、呉の方が脅威だ)
司馬懿の内心は、常に二重構造になっていた。
表向きは丞相の意向に従う忠実な参謀。
しかし。心の奥底には、自らの読みと野心が潜んでいた。
夜更け、司馬懿は書斎で一通の手紙を読んでいた。
北方・許都からの使いだった。
「仲達へ。荊州の安定を最優先せよ。しかし油断するな。劉備は西へ逃れたが、諸葛亮という知略の士を得た。また、江東の周瑜も侮れぬ。彼らが手を組めば、再び脅威となる。郭奉孝」
司馬懿は手紙を読み終えると、静かに炎に投じた。
郭嘉からの警告は的確だった。
司馬懿自身も同じ危惧を抱いていた。
「(すでに見抜いている)」
司馬懿は囁いた。
郭嘉と司馬懿は、時に考えが一致する。
だが、二人の手法は対照的だった。
郭嘉は直感と大胆な策を好み、司馬懿は慎重な分析と緻密な計画を重視した。
司馬懿は灯火の下、荊州の詳細な地図に向かった。
各地の要所に印を付け、守備隊の配置を再検討していた。
(劉備は今、益州へ向かっている。劉璋を説得し、益州の地を得れば、西は脅威となる)
司馬懿は西方を指す印に目を留めた。
(一方、東の孫権は水軍の再建に努めているはず。劉備と孫権の連携を断つには…)
司馬懿は地図上で長江の流れを辿り、荊州南部に印を付けた。
(ここに防衛線を引く。そして内政で民心を掴み、この地を盤石にする)
決断を下した司馬懿は、翌日の指示書を起草し始めた。
司馬懿の筆は迷いなく紙の上を走る。
春から夏へと季節が移る頃、司馬懿は荊州南部の村々を視察していた。
民衆の実態を知るためだった。
司馬懿は簡素な服装で、数名の護衛だけを連れていた。
ある村で、司馬懿は老農夫と言葉を交わした。
「地勢は、どう変わったかね?」
老人は懐疑的な目で司馬懿を見た。
「新しい領主が来れば税が変わる。だが、農の苦しみは変わらぬ」
司馬懿は頷いた。
「では、何があれば暮らしは良くなる?」
「洪水から守る堤防と、公平な徴税だけでいい」
老人の言葉は簡単だが、核心を突いていた。
司馬懿は帰路、この会話を思い返していた。
(民は単純な望みを持つ。安全と公正。それを与えれば、統治は容易になる)
襄陽に戻った司馬懿は、すぐさま治水事業の計画を命じた。
また、徴税制度の見直しも指示した。
司馬懿の方針転換に、部下たちは戸惑いを見せた。
「なぜそこまで民のために?」
曹洪が問うた。
司馬懿は静かに答えた。
「民心なくして統治なし。彼らの支持があってこそ、我らは次なる戦に備えられる」
その言葉の裏には、冷徹な計算があった。
民の支持は兵の徴募や物資の確保に直結する。
それは次の戦いの基盤となる。
だが、司馬懿の心の最深部では、もう一つの狙いが芽生えていた。
(曹操公は英雄だが、時に民を顧みぬ。真の統治者は、力だけでなく、民の心を掴む術を知るべきだ)
これは野心の芽だった。
まだ小さく、司馬懿自身も明確に意識してはいなかった。
だが確かに、司馬懿の心に根を下ろし始めていた。
秋風が吹き始めた日、司馬懿は襄陽城の高台から遠くを眺めていた。
司馬懿の視線の先には長江が流れ、その先には呉の領土が広がっていた。
「司馬公」
声をかけたのは、配下の諜報担当・楊修だった。
「報告します。江東の周瑜は健康を回復し、水軍の再建に着手。一方、魯粛という参謀が外交を担当し、蜀との連携を図っています」
司馬懿は淡々と聞き入り、冷静に状況を分析した。
「周瑜は軍事、魯粛は外交か。」
司馬懿は少し考え、続けた。
「では、我らもそれに応じた対応を。曹仁を南部国境に配置し、防衛を固める。同時に、江陵の水運を強化し、北方との連携を円滑にせよ」
楊修は命令を記録し、さらに報告を続けた。
「また、西方の情報です。劉備は益州で劉璋と交渉中。諸葛亮の知略で、徐々に勢力を拡大しているようです」
司馬懿の目が一瞬、鋭く光った。
「予想通りだ。劉備らも時間を稼いでいる。我らと同じく」
視線を西に向け、司馬懿は呟いた。
「漢中の張魯にも目を光らせよ。あの地は益州と関中を繋ぐ要衝だ」
夕日が荊州の大地を赤く染める。
司馬懿は静かに扇子を開き、風を感じていた。
「時は流れる。今は種を蒔き、根を張る時。やがて花を咲かせ、実を結ぶ」
その言葉には、長い戦いへの覚悟が滲んでいた。
交差する視線
209年冬、長江の霜が降りる季節。
魯粛は小舟に乗り、中立地帯での会合に向かっていた。
今回の相手は意外な人物、曹操軍の司馬懿だった。
「なぜこのような会合を?」
魯粛は内心疑問に思っていた。
だが、孫権の許可を得て臨んでいた。
二人が会合したのは、長江の中州にある小さな廟だった。
人気のない場所で、双方とも護衛を離れ、一対一で向き合った。
「魯子敬、お会いできて光栄です」
司馬懿の声は静かだが、その眼には鋭い光があった。
魯粛は相手の意図を探りながら応じた。
「司馬仲達、こちらこそ。何故この会合を?」
司馬懿は微笑み、扇子を開いた。
「単なる好奇心です。江東の知略の士と一度、言葉を交わしてみたかった」
二人は廟の縁側に腰を下ろし、目の前を流れる長江を眺めた。
対岸には互いの領土が広がっている。
「今、三つの勢力が均衡しつつある」
司馬懿が静かに切り出した。
「曹公の北方、孫権の江東、そして西の劉備」
魯粛は相手の言葉に何か意図を感じつつも、柔らかく応じた。
「均衡とは脆いもの。風一つで崩れるやもしれない」
司馬懿は頷いた。
二人の間に奇妙な共感が生まれていた。
同じ参謀として、互いの立場を理解しあっているかのようだった。
「我らは道は異なれど、考えは似ているかもしれぬ」
司馬懿が言った。
「共に主君を支え、安定を求める」
魯粛は微笑んだ。
「左様。だが、安定の先に何を見るか。それが我らとの違いでしょう」
司馬懿の目が僅かに細まった。
「先を見る目、それは参謀の使命」
会話は続き、二人は表向き、学術的な議論や歴史談義に花を咲かせた。
だが、互いの内情を探り合い、相手の思考を読み取ろうとしていた。
魯粛が扇子を開いた時、司馬懿はその動きに目を留めた。
「あなたも扇子を使われますか」
魯粛は微笑み、
「風を読むためです」
と答えた。
司馬懿も自らの白い扇子を開き、
「私もです」
と応じた。
二人の扇子が風に揺れる様は、まるで将来の戦いの予兆のようだった。
「江東の水は清く、荊州の土は肥えている」
司馬懿が言った。
「互いに欲するものを持つ者同士、いずれ争いは避けられないでしょう」
魯粛は穏やかに首を振った。
「必ずしも。水と土が調和すれば、豊かな実りをもたらす」
司馬懿は感心したように頷いた。
「興味深い考えです。しかし現実は…」
言葉を濁した司馬懿の瞳に、魯粛は野心の影を見た気がした。
会合は表面上、礼儀正しく終了した。
だが互いに、相手の本質を垣間見た一日だった。
舟に戻る魯粛の背に、司馬懿の視線が突き刺さる。
魯粛もまた、岸辺に立つ司馬懿を振り返った。
二人の間に流れる長江は、未来の戦いの舞台となるだろう。
「流れは変われど、水の性質は変わらず」
魯粛は心の中で呟いた。
「あの男の野心も、川の流れのように確かなものだ」
建業に戻った魯粛は、司馬懿との会合内容を周瑜に報告していた。
「奴は危険な男です」
魯粛は静かに言った。
「表面は冷静沈着、内に強い野心を秘めている」
周瑜は眉を寄せた。
「曹操の懐刀となる男か」
「いいえ」
魯粛は首を振った。
「将来は、奴自身の刀となる男です」
周瑜は魯粛の洞察力に感心しつつ、北方への警戒を強める決意を固めた。
一方、襄陽に戻った司馬懿は、魯粛との会談から得た情報を整理していた。
(魯粛…表面は穏やかだが、水底の流れを読む男だ)
司馬懿は丞相への書に筆を走らせながら、内心では別の思いを巡らせていた。
(江東との開戦は、まだ時期尚早。まずは内政を固め、西方の脅威に備えるべきだ)
こうして、209年の冬は過ぎていった。
三つの勢力が互いを牽制しつつ、次なる一手を模索する時代が始まっていた。
東の孫権、北の曹操、西の劉備
それぞれが異なる道を歩みながらも、やがて交わる運命にあった。
魯粛の柔和な外交と司馬懿の冷徹な統治。
対照的な二人の参謀の手腕が、新たな均衡をもたらしつつあった。
だが、それは永遠に続く平和ではなく、より大きな嵐の前の静けさに過ぎなかった。
天命の風は、いずれ再び策謀の河を揺るがすだろう。
第5章 益州の攻防と喪失
龐統視点 猿の手
「三日も釣れば、魚は勝手に網にかかるもんだ」
龐統は漢中の丘に腰を下ろし、遥か北方を睨みつけた。
冬の夜明け前の空気は肌を刺すように冷たく、遠くの山々はまだ霧に包まれていた。
その視線の先にあるのは、曹操軍が駐屯する長安への通り道。
わずか数日前まで、ここは曹操軍の支配下にあった。
「しかし、あんたの釣りは下手くそだな」
背後から声がかかった。
振り返ると、黒い髭を蓄えた魏延が立っていた。
「まだ魚は一匹も釣れていないぞ」
龐統は笑いながら立ち上がった。
低い身長と粗末な外見は、その頭脳の鋭さを隠すための天与の擬態のようだった。
「魚を釣るのが目的じゃない。魚が飛び跳ねる場所を見定めるのさ」
龐統は手にした竹の棒で地面に簡略な地図を描いた。
「漢中は蜀と魏の喉元にある刃物だ。ここを制する者が相手の呼吸を止められる。曹操はその重要性を理解している。だからこそ、あの男は張郃と徐晃という精鋭を送ってきた」
龐統は鷹のように目を細めた。
龐統の策謀は、まだ始まったばかりだった。
「漢中は我らの手に落ちた」
龐統は劉備の前で報告した。
葭萌関での戦いから一ヶ月が経っていた。
益州の王宮に戻った龐統は、劉備と諸葛亮の前で今後の戦略について語っていた。
「曹操の前線指揮官たちは退いたが、次の波が来るのは時間の問題です。張遼か夏侯淵あたりかと」
諸葛亮が静かに頷いた。
「魏延将軍の功績は大きい」
「ああ、魏延は良い牙だ」
龐統は香木を燃やした煙をくゆらせながら言った。
「だが、あの男は諸刃の剣さ。自分より優れた猟犬が現れると、牙を剥くこともある」
劉備は厳しい表情で言った。
「魏延の忠誠に疑いを挟むのか?」
「忠誠ではありません。魏延は玄徳公に忠実だろう。問題は誰を信頼するかだ」
龐統は諸葛亮に視線を移した。
「孔明を嫌っているのは隠さないな」
諸葛亮はわずかに微笑むだけだった。
「いずれにせよ」
龐統は話題を戻した。
「漢中は確保した。次は…益州全域の管理だ」
龐統は地図を広げ、指先で領地を示した。
「益州はまだ統一していない。劉璋の旧家臣たちはよく馴れていない。何より…」
龐統は声を落として付け加えた。
「馬超の反乱の動きが気になる」
漢中から西へ二百里。馬超がいた。
馬超は馬家代々の誇りと西涼からの逃亡者という二つの顔を持っていた。
曹操に父を殺され、故郷を追われ、今は劉備に身を寄せている男。
その怒りは常に皮膚の下で脈打っていた。
「馬将軍、お話があります」
龐統は馬超の軍営を訪れた。
馬超は鍛錬中だった。
汗だくの上半身で武芸の型を繰り返し、その動きは獰猛な虎を思わせた。
「鳳雛先生か」
馬超は剣を鞘に収めながら言った。
龐統を呼ぶその口調には、尊敬と警戒が混じっていた。
「西涼の獅子は、檻の中でも鋭い爪を持つな」
龐統は微笑んだ。
「曹操は君の力を恐れている」
馬超の顔に一瞬、憎悪の閃きが走った。
「あの男を倒すまで、この剣は休まない」
「その怒りこそが私の最大の武器だ」
龐統は近づいた。
「だが、今は賢明に振る舞わねばならない。漢中の次は、北上して長安を狙う。その時、あなたの力が必要だ」
馬超は黙って頷いた。
「劉璋の旧臣たちは、あなたを恐れている。このままでは協力は得られまい」
龐統は言った。
「劉璋の旧臣らに恐怖ではなく、尊敬されるようになれば…」
「何を言いたい?」
馬超は苛立ちを隠さなかった。
「簡単なことさ」
龐統は穏やかに答えた。
「しばらくは孔明の指示に従って欲しい。孔明なら旧臣たちとの架け橋になれる」
馬超は眉をひそめた。
「あの扇子の男か…」
「孔明は君を高く評価している」
龐統は嘘をついた。
実際、諸葛亮は馬超の扱いに慎重だった。
「共に働けば、長安はもっと早く手に入る」
馬超は長い沈黙の後、ゆっくりと頷いた。
「わかった。だが、曹操を討つのは私の使命だ」
龐統はにっこりと笑った。
「もちろんだ。その日は必ず来る」
益州の統治は予想以上に難航した。
劉璋の旧臣たちは表面上は従ったが、その本心は簡単に読み取れた。
蜀の山々はまだ劉備軍にとって未知の領域であり、豊かな資源と複雑な勢力図が入り混じっていた。
龐統は夜遅くまで諸葛亮と策を練った。
二人の智略が織りなす計は、時に対立し、時に融合した。
「馬超の扱いには気をつけるべきだ」
諸葛亮は言った。
「馬超は猛虎だ。だが、今は鎖でつないでいる」
龐統は答えた。
「馬超の勇猛さは我らの力になる」
諸葛亮は扇子を閉じて言った。
「虎を飼うということは、いつか食われる覚悟も必要だ」
「だから鎖が大事なんだよ」
龐統はにやりと笑った。
「奴の鎖は、『曹操への復讐』さ」
空気が緊張で満ちる中、劉備が部屋に入ってきた。
「士元、孔明、お前たちに良い知らせだ」
劉備は興奮した様子で言った。
「曹操軍が後退している。漢中から撤退し始めた」
龐統と諸葛亮は顔を見合わせた。
これは予想外だった。
「なぜです?」
龐統は眉をひそめた。
「曹操は漢中を簡単に諦めるような男ではない」
諸葛亮が静かに言った。
「荊州か…あるいは袁氏の残党」
「いや、違う」
劉備は首を振った。
「報告によれば、郭嘉が病に倒れたようだ」
龐統はハッとした。
あの郭嘉が…。
以前の病気が再発したのか? あるいは…。
「これは好機だ」
龐統は声を上げた。
「今こそ北進のときだ」
諸葛亮は冷静に言った。
「慎重さも必要だ。郭嘉の病が罠でないとは限らない」
「罠であれ何であれ、今動かねば魏が態勢を立て直す」
龐統は強く主張した。
「玄徳公、私に漢中から北上する許可を」
劉備は二人の間で逡巡した。
漢中に戻った龐統は、北上への準備を開始した。
早朝から将兵たちを集め、作戦を説明していた。
「我らは二手に分かれる。主力は正面から進み、魏軍の注意を引く。もう一方は山を通って側面から攻める」
魏延が訊ねた。
「敵の総大将は?」
「夏侯淵だろう」
龐統は答えた。
「曹操の従弟だが、頭は悪い。勢いで動く男だ」
「そうか」
魏延は笑った。
「では、お前の奇策には対応できないわけだな」
龐統は地図を指さした。
「ここが鍵だ。定軍山。ここを制する者が、この戦いを制する」
龐統は軍議を終え、天幕に戻った。
小さな机の上には、数日前に届いた諸葛亮からの手紙があった。
「定軍山への進軍は時期尚早かもしれない。もう少し態勢を整えるべきでは?」
龐統はその手紙を読み返し、苦笑した。
孔明はいつも慎重だ。
だが今は攻めるときだ。龐統は返書を書いた。
「鳳雛と言われた私に、いつまで待てというのか。機は熟した。私が行かずして誰が行く」
手紙を送った翌日、龐統は軍を率いて北へ向かった。
定軍山への道は、予想以上に厳しかった。
急な斜面と狭い道は進軍を遅らせた。
森は濃く、視界は悪かった。
「敵に動きはありません」
斥候が報告した。
「夏侯淵は山の向こうで陣を構えています」
龐統はうなずいた。
「予想通りだ。夏侯淵は正面から我らを迎え撃つつもりだろう」
龐統は馬を進め、前方を見た。
木々の間から、わずかに山の頂が見えた。
「もう少しだ」
龐統は自分に言い聞かせるように呟いた。
突然、風の音が変わった。
「伏せろ!」
龐統は叫んだ。
その瞬間、矢の雨が龐統を襲った。
「敵襲だ!」
混乱が広がる中、龐統は状況を把握しようとした。
敵はどこに?
数はどれほど?
「鳳雛先生!」
誰かが叫んだ。
龐統が振り返った時、一本の矢が飛んできた。
避けようとしたが、遅かった。
龐統は彼の胸を貫いた。
痛みはなかった。
ただ、急に体が重くなった。
龐統は馬から滑り落ち、地面に倒れた。
血が口から溢れ、視界が赤く染まった。
「囲まれた…」
龐統は呟いた。
「罠だったのか…」
空を見上げると、木々の間から太陽の光が差し込んでいた。
龐統は微笑んだ。
「孔明よ…あとは頼む…」
龐統の目は閉じ、息は絶えた。
鳳雛と呼ばれた男の最期だった。
司馬懿視点「河の流れを読む」
冷たい風が長安の城壁を吹き抜けた。
司馬懿は城壁の上から遠くを眺めていた。
天才と呼ばれた郭嘉が再び病に倒れてから一ヶ月が過ぎていた。
郭嘉の不在は、魏軍全体に暗い影を落としていた。
「司馬軍師」
背後から声がかかった。
夏侯惇だった。
「曹公がお呼びだ」
司馬懿はゆっくりと頷いた。
夏侯惇の表情からは何も読み取れなかった。
内心では、次の一手を考えていた。
曹操の戦略会議は緊張感に満ちていた。
郭嘉の病状が深刻化し、漢中の状況が悪化していた。
「夏侯淵の報告では、蜀軍が本格的に北上を開始したようだ」
曹操は地図を見ながら言った。
「龐統という男が指揮をとっています」
夏侯惇は付け加えた。
「鳳雛と呼ばれる策士です」
「知っている」
曹操はうなずいた。
「龐統と諸葛亮は、二つの翼を持つ龍のようなものだ」
司馬懿は黙って聞いていた。
頭の中では、既に複数の戦略が形作られつつあった。
「司馬仲達」
曹操は司馬懿に目を向けた。
「お前の考えは?」
司馬懿は慎重に言葉を選んだ。
「龐統は賢明ですが、性急です。果実が熟す前に手を伸ばすでしょう」
「それは?」
曹操は眉を上げた。
「罠を仕掛けるべきです」
司馬懿は静かに言った。
「龐統は必ず前線に出る。その時が、絶好の好機です」
曹操は長い間、司馬懿を見つめた。
その目には、評価と警戒が混ざっていた。
「夏侯淵に伝えよ」
曹操は最後に命じた。
「龐統には特別な歓迎を用意するようにとな」
計画は予想以上に早く実を結んだ。
定軍山での伏兵は龐統を捕らえるはずだったが、命を奪うことになった。
司馬懿は報告を受け取り、複雑な思いを抱いた。
「鳳雛が落ちた」
司馬懿は曹操に報告した。
「龐統が戦死とのこと」
曹操はうなずいた。
「これで蜀の翼は片方折れたな」
「はい」
司馬懿は同意した。
「しかし、諸葛亮がいます。奴は簡単には破れません」
「郭嘉がいれば…」
曹操は言いかけて止めた。
司馬懿は何も言わなかった。
郭嘉の不在は大きかった。
郭嘉の急進的な策略は、時に曹操軍を危険な状況に導くこともあったが、それを上回る成果をもたらしていた。
しかし今、その重責は司馬懿の肩にかかっていた。
「諸葛亮はどう動くだろうか」
曹操は問うた。
「諸葛亮は内部の強化に努めるでしょう」
司馬懿は答えた。
「馬超と劉璋の旧臣たちの間に不和があると聞いています。それを修復するには時間がかかる」
「その間に我らは?」
「攻撃すべきです」
司馬懿は言った。
「しかし、正面からではなく…」
司馬懿は地図を指さした。
「南。荊州との境界から」
曹操は考え込んだ。
「荊州…郭嘉が確保した土地だ」
「はい」
司馬懿はうなずいた。
「我らは二正面作戦を強いるべきです。蜀は資源が乏しい。長期戦になれば、必ず崩れます」
「よし」
曹操は決断を下した。
「張遼に命じて、荊州南部から蜀を牽制させよう」
数ヶ月後、状況は司馬懿の予測通りに進んでいた。
蜀は二正面での戦いを強いられ、兵糧の限界に直面していた。
しかし、諸葛亮の対応も予想以上に巧みだった。
「張遼からの報告です」
荀彧が司馬懿に手紙を渡した。
「蜀軍は撤退しましたが、後方支援が驚くほど手強かったとのこと」
司馬懿は手紙を読み、静かにうなずいた。
「諸葛亮は後方の管理に長けている。前線だけを見ていては勝てない」
「どうなさる?」
荀彧は問うた。
「根本から揺さぶる必要がある」
司馬懿は答えた。
「蜀の弱点は…劉備だ」
「劉備?」
荀彧は驚いた様子だった。
「彼は民に愛されている」司馬懿は説明した。「だからこそ、我々は彼の評判を傷つけなければならない」
「どのように?」
「噂を流す」
司馬懿は冷静に言った。
「劉備が劉璋の家族をどう扱ったかを。益州をどのように奪ったかを。西方の諸民族には、劉備が馬超を利用しているという話を」
荀彧は眉をひそめた。
「それは…」
「戦いは刃だけでするものではない」
司馬懿は言った。
「民心も武器になる」
212年から214年にかけて、蜀と魏の攻防は続いた。
龐統の死後、蜀の戦略は諸葛亮の指揮下で変化した。
より慎重に、より計画的に。
司馬懿は彼の動きを注視していた。
二人は直接対決したことはなかったが、互いの存在を強く意識していた。
二人の頭脳が織りなす見えない戦いが、三国の命運を左右しつつあった。
ある日、曹操は司馬懿を呼んだ。
「郭嘉の容態が悪化している」
曹操は静かに言った。
「医師たちは…もう長くないと」
司馬懿は黙って頭を下げた。
郭嘉の死は予想されていたことだった。
しかし、その現実は重く司馬懿の心に圧し掛かった。
「お前がその役割を継がねばならない」
曹操は言った。
「わしの第一の謀臣として」
「この身、命に代えても」
司馬懿は答えた。
しかし、その心の奥には、別の思いが渦巻いていた。
曹操、曹丕、そして魏の未来について。
214年末、三国の情勢は新たな均衡に向かっていた。
荊州は魏の支配下にあり、益州は蜀が固め、江東は呉が治めていた。
龐統の死は蜀に大きな喪失をもたらしたが、諸葛亮の指導力がそれを補っていた。
司馬懿は長安の書斎で、書簡を読んでいた。
天気は荒れ、雨が窓を打ちつけていた。
「先生」
従者が入ってきた。
「郭軍師が…」
言葉は不要だった。
司馬懿は立ち上がり、曹操の邸宅へと向かった。
雨の中を歩きながら、曹操は思った。
「これでまた一人、時代を動かした者が去る」
郭嘉との関係は複雑だった。
郭嘉の才能を尊敬しながらも、時に対立することもあった。
しかし今、郭嘉の死は大きな空白を生み出すことになる。
「私は川の流れを読む者」
司馬懿は雨に濡れた顔を上げて呟いた。
「郭奉孝は風の向きを変える男だった」
司馬懿は曹操の邸に着き、静かに門をくぐった。
新たな時代が始まろうとしていた。
それは司馬懿の時代になるかもしれない。あるいは…。
司馬懿は深く息を吸い、心を静めた。
「川は流れ続ける」
司馬懿は静かに言った。
「そして私は、その流れを見極める」
第6章 三国鼎立と風の先へ
郭嘉 風中の牌
初夏の風が洛陽の城壁を吹き抜けていった。
郭嘉は官邸の屋上から北方へと伸びる魏の領土を眺めていた。
遠くに見える黄河は、かつての混沌から生まれた秩序の境界線のように輝いている。
「奇跡の生還から八年か」
自らの掌を見つめる。
かつて死の淵から這い上がった時、自分の命運と魏の命運は表裏一体だと悟った。
赤壁の戦いで曹操軍を敗北から救い、荊州を確保したことで、北方大国としての地位を盤石にできた。
だが、それは三国鼎立という均衡をもたらすことにもなった。
「まるで賭博の途中で勝負を止められたようなものだな」
側近の者が書簡を持って近づいてきた。
漢中からの急報である。
諸葛亮の軍が動き始めたという。
「孔明よ、次の手を打つか」
郭嘉は微笑んだ。
「まるで風を読む者同士の勝負だ」
郭嘉は懐から木製のさいころを取り出し、風に向かって投げた。
さいころは屋根の上で回転し、「六」の目を上にして止まった。
吉兆だ。
「司馬仲達、召集をかけよ」
郭嘉は側近に命じた。
「魏の次の一手を決める時が来た」
郭嘉の目には、まだ見ぬ未来の戦場が見えていた。
そこには三つの風が渦を巻き、いずれ一つに収束する姿が映っていた。
司馬懿 遠謀の石
司馬懿は書斎の囲碁盤を前に静かに思索していた。
黒白の石が作る局面は、現在の三国の勢力図そのものだった。
魏を表す黒石は盤面の北側を占め、蜀と呉を表す白石はそれぞれ西と東に散らばっている。
「勝敗は石の数ではなく、地の広さ」
司馬懿は黒石を一つ置き、南への進出路を確保する手を打った。
青年だった頃の司馬懿は、一気呵成に敵を倒すことが戦いだと思っていた。
しかし、郭嘉と共に赤壁の危機を乗り越え、荊州統治に携わった経験から、真の勝利とは百年の計であることを悟ったのだ。
「あの火計の夜から七年。短期で見れば我らは勝ったが、長期で見れば…」
司馬懿は囲碁盤の端に目をやった。
蜀を表す白石はわずかな地だが、要所を固めて生き残っている。
呉の白石もまた、長江を背にして盤石の構えを見せていた。
「郭奉孝はあの時、勝利を得るために小さな犠牲を選んだ。だが私は…」
思考を遮るように、扉が開く音がした。
「司馬仲達、丞相閣下がお呼びです。郭軍師と共に」
司馬懿は静かに立ち上がり、囲碁盤に目を向けた。
そこには、まだ打たれていない石の存在が見えた。
十手、二十手先の局面を見据えた布石。
それこそが自分の担うべき使命だ。
「行こう。我らの次の一手を告げに」
司馬懿の表情には何も感情が浮かんでいなかったが、心の奥では静かな炎が燃えていた。
三国は今、均衡という名の緊張状態に置かれている。
だがそれは、勝利への布石に過ぎない。
諸葛亮 — 天文の輝き
漢中の山々は霧に包まれ、星々は雲の向こうに隠れていた。
諸葛亮は陣営の外れに設けた観測台で、天空の動きを占っていた。
「天の星々は巡り、地上の争いもまた巡る」
七年前、赤壁の戦いで同盟軍は勝利寸前までいきながら、郭嘉の策により荊州を失った。
劉備軍は西へと追いやられ、益州を確保することでようやく基盤を得た。
そして、計略により漢中を掌握し、北への橋頭堡を築いた。
「我が主、劉玄徳の志は漢室の再興。その夢は大きく、輝きを失わない」
諸葛亮は星図から目を上げ、北方を見つめた。
そこには魏の大軍が、まるで星の海のように広がっているはずだ。
羽扇を手に取り、静かに仰いだ。
「我が生涯、この北斗七星の下で誓った忠義、いまだ道半ば」
諸葛亮の背後で、馬良が静かに歩み寄った。
「軍師、魏軍の動きについての報告です」
諸葛亮は振り返らず、
「郭嘉と司馬懿、二人の動きはどうだ」
と尋ねた。
「二人は曹操と密談を重ね、次の戦略を練っているようです」
「そうか」
諸葛亮は静かに微笑んだ。
「あのふたりなら、私の次の一手も読んでいるだろう」
漢中の風が衣を揺らし、遠くから雷鳴が響いた。
「だが天の意志は簡単に読めるものではない」
諸葛亮は懐から一通の手紙を取り出した。
呉からの密書である。
魯粛からの返信だ。
「ならば我らも次の一手を打とう。天の星々のように、小さくとも確かな光を放つために」
龐統 不在の声
漢中の最前線、五丈原の丘に一本の桃の木が植えられていた。
その前に諸葛亮が立ち、静かに手を合わせている。
「士元、見ているか。我らの道はまだ続いている」
二年前、益州攻防の最中に戦死した盟友への言葉だった。
龐統の策略があったからこそ、蜀軍は危機を乗り越え、ここまで来られた。
だが龐統の死は、諸葛亮の心に大きな穴を残していた。
風が吹き、桃の花びらが舞い上がった。
「士元ならば今、どんな策を巡らせているだろうか」
諸葛亮は目を閉じ、龐統の声を想像した。
「孔明よ、悩みすぎだ。賭けるべき時は賭けろ。私が死んだのは運が悪かっただけのこと。だが君の謀は慎重すぎる」
「士元…」
「三国鼎立?笑わせるな。魏があれほどの大国なら、我らが生き残るには奇策あるのみ。常識では勝てぬ相手には、奇策で立ち向かうのみ」
風が強くなり、桃の枝が揺れた。
諸葛亮は静かに目を開けた。
「君の言う通りだ。だからこそ我らは動く」
諸葛亮は振り返り、陣営を見た。
そこでは法正と蜀の将兵たちが次の作戦の準備をしていた。
表情には、敗北を知りながらも前へ進む決意が刻まれていた。
「士元、見ていてくれ。我らの奇策を」
諸葛亮は羽扇を広げ、陣営へと歩き始めた。
龐統の死を埋めることはできない。
だが志を継ぐことはできる。
周瑜 燃えた川
東呉の本拠地、建業の宮殿内。
周瑜は病床に横たわっていた。
赤壁の戦いで負った傷と、軍事の疲労が体を蝕んでいた。
だが周瑜の目は今もなお炎のように輝いていた。
「我が策は焦土と化したか」
赤壁の夜を思い出した。
周瑜の放った火の矢が曹操の船団を焼き尽くすはずだった。
しかし郭嘉の先読みにより、曹操本隊は難を逃れた。
結果、魏軍は長江を渡り、荊州を制圧した。
呉は南岸を守ることで精一杯だった。
「奉孝め、火を以って火を制するとはな」
周瑜は窓の外に見える長江に目をやった。
かつて炎で赤く染まった川は、今は静かに流れている。
だがその平穏さは、三国の緊張を隠した仮面に過ぎなかった。
「公瑾、無理をするな」
部屋に入ってきた魯粛が心配そうに声をかけた。
「子敬」
周瑜は微笑んだ。
「諸葛亮からの手紙を持ってきたな?」
魯粛は驚いた表情を見せた。
「どうして…」
「孔明が動く頃合いだ。奴なら私を頼るだろう」
魯粛は静かに手紙を差し出した。
「蜀との同盟を再び結ぶべきか、主公は判断を迷っている」
周瑜は手紙を受け取り、開いた。
その内容に静かに笑みを浮かべた。
「子敬、伝えてくれ。呉の火はまだ消えていないと。孔明の風と共に、再び大きな炎となる時が来ると」
周瑜は病の体で起き上がり、窓際へと歩いた。
遠くには北方への航路が見えた。
「郭奉孝、司馬仲達、再会の日も近い」
周瑜の目に映る川面は、かつての炎の記憶を映して揺らめいていた。
魯粛 橋渡しの水
江南の雨季。
魯粛は小舟に乗り、長江を上流へと航行していた。
周瑜からの密命を受け、漢中へと向かう途中だった。
「公瑾の火と孔明の風、それを繋ぐのが私の水か」
載淑は舟の後方に積まれた荷物を確認した。
表向きは交易品だが、その中には周瑜からの返書が隠されていた。
三国鼎立の均衡は、表の戦いと裏の同盟工作の両輪で成り立っている。
「均衡など幻想に過ぎない。だが今はそれを維持することが、呉の生存戦略」
魯粛は流れる雲を眺めた。
昨日までの豪雨が嘘のように、空は清々しく晴れ渡っていた。
政治も天候と同じく、変わりやすいものだ。
今日の同盟国が明日の敵国になることもある。
小舟が岸辺に近づくと、そこには蜀の旗を掲げた一団が待っていた。
「魯子敬殿、よくぞ来てくださいました」
若い将官が敬礼した。
「私は馬良、諸葛軍師の命で参りました」
魯粛は小舟から降り、馬良と挨拶を交わした。
「周公瑾からの返事です。同盟の再構築に向けた第一歩となるでしょう」
「ありがとうございます。軍師は喜ぶでしょう」
二人は静かに歩き始めた。
「北の情勢はどうです?」
魯粛は尋ねた。
「郭嘉と司馬懿が次の侵攻を計画しているようです。我らだけでは…」
「呉も同じです」
魯粛は静かに言った。
「だからこそ、水と風は再び手を組まねばなりません」
馬良は頷いた。
「軍師も同じことを仰っていました。大河も小川も、最後は海に注ぐように」
魯粛は空を見上げた。
雲の向こうには、北方の大国が控えている。
魏の陰は大きく、三国の上に影を落としていた。
しかし小さな同盟の光が、その陰を少しずつ押し返していくだろう。
「馬幼常、行きましょう。私たちの道は長いですが、必ず辿り着ける場所があるはずです」
全視点 — 交錯する運命
建安二十年(215年)冬。
洛陽、許昌、成都、建業
四つの都で同時に戦争会議が開かれていた。
洛陽では、曹操と郭嘉が向かい合っていた。
「奉孝、魏の次なる一手は?」
曹操は問うた。
郭嘉は地図上の三点を指した。
「漢中、荊南、遼東。この三角形の中に、天下統一の鍵があります」
司馬懿が静かに進み出た。
「しかし急ぐべきではありません。時間は我らの味方です」
三人の視線が交錯した。そこには計り知れない野望と謀略が詰まっていた。
成都では、劉備と諸葛亮が宴席を設けていた。
「孔明、魯粛との会談はどうだった?」
諸葛亮は羽扇を広げながら答えた。
「東呉との同盟は再確認されました。周公瑾も同意しております」
法正が横から口を挟んだ。
「だがそれでも我らは弱小。もっと奇策が必要では?」
「龐統がいれば…」
誰かがつぶやいた。
諸葛亮は静かに目を閉じた。
「いいえ、士元の遺志は我らと共にあります。士元の奇策は、我らの中に生き続けている」
建業では、孫権が周瑜の病床を訪れていた。
「公瑾、無理はするな」
周瑜は苦しそうに微笑んだ。
「主公、魯粛が蜀との橋を架けました。あとは…」
「あとは?」
「私の火と孔明の風が合わさる時を待つのみ」
孫権は周瑜の手を握った。
「我らの呉は小さいが、その心は天下に負けぬ」
長江の船上では、魯粛が一人星空を見つめていた。
「三国の命運、ついに糸が絡み始めたか」
魯粛は懐から三通の手紙を取り出した。
諸葛亮、周瑜、そして意外にも郭嘉からのものだった。
三国それぞれの思惑が、水面に映っていた。
北方、長安近郊の軍営。
郭嘉は天幕の下、一人呪文のように呟いていた。
「風は北から南へ、そして西から東へ。だが最後に勝つのは…」
西方、漢中の山頂。
諸葛亮は星空を仰ぎ、天命を占っていた。
「天は時に人を試し、人は時に天に挑む。我らの道は…」
東方、建業の高楼。
周瑜は病の体で立ち上がり、北を睨んでいた。
「炎は再び燃え上がる。次は消えることなく、天まで届くだろう…」
長江の中流、一艘の船。
魯粛は三通の手紙を開き、それぞれの言葉を比べていた。
「三つの道が交わる時、新たな物語が始まる…」
夜空には北斗七星が煌めき、地上の策謀を見下ろしていた。
三国の命運は、天にも予測できない。
風は吹き、水は流れ、火は燃える。
そして人は、それぞれの天命に向かって歩き続ける。
天命の風は、いずれ一つの方向へと収束するだろう。
だがそれがどの方向なのかは、まだ誰にも分からない。
ただ確かなことは一つ。
策謀の河は、永遠に流れ続けるということ。
終
「もうひとつの三国志」第一弾 鳳雛の翼

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