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創作歴史小説「もうひとつの三国志」徐庶伝~忠義の彼方に~

創作歴史小説「もうひとつの三国志」徐庶伝~忠義の彼方に~ 三国志関係

「もうひとつの三国志」徐庶伝~忠義の彼方に~

序章 徐庶進曹営、一言不発?

洛陽の西の外れ、黄河を望む小さな庭園で、白髪の老人がひとり石の卓に向かっていた。
初夏の夕日が老人の深く刻まれた皺を金色に染めている。
手には一巻の竹簡。
それは諸葛亮の『出師表』の写本であった。

「先生」

振り返ると、男が立っていた。
精悍な顔立ちに知性の光を宿している。

「姜維か。よく来てくれた」

老人は微笑みながら手招きした。
姜維は恭しく礼をとり、老人の前に座る。

「お呼びいただき、ありがとうございます。徐庶先生」

そう、この老人こそ徐庶――字を元直という。
かつては劉備の軍師として活躍し、諸葛亮を推薦した人物。
そして曹魏に仕える官吏として、静かな余生を送っていた。

「姜維よ、お前は蜀の武将だったな。孔明殿の最後の弟子と聞いている」

「はい。不肖ながら、諸葛丞相の志を継がんと」

「志を継ぐか...」

徐庶は遠い目をした。

「孔明殿の志とは何だったと思う?」

姜維は迷わず答えた。

「漢室の復興です。先帝劉備陛下の遺志を継ぎ、中原を統一し、漢の天下を取り戻すこと」

徐庶はゆっくりと首を振った。

「それは表面上のことじゃ。孔明殿の本当の志は…」

老人は立ち上がり、夕日に向かって歩いた。

「姜維よ、一つ聞こう。『徐庶進曹営、一言不発』という言葉を知っているか?」

「存じております。先生が曹操の陣営に入られてから、一言も献策なさらなかったという…」

「ほう」

徐庶は振り返り、苦笑いを浮かべた。

「それが世間で語られている私の姿か。果たして本当にそうだったのかな?」

姜維は戸惑った。
老人の言葉には、何か深い意味が込められているようだった。

「実は今日、お前を呼んだのには理由がある」

徐庶は再び座り直した。

「私はもう八十を過ぎた。残された時間は少ない。孔明殿が逝かれてから十年…私が抱えてきた真実を、誰かに語り継がせたいと思うのじゃ」

「真実とは?」

「私が本当は何を選択し、何を捨て、何を守り抜いたのか。世間では私を『心ここにあらず』の象徴として語るが、果たして本当にそうだったのか」

徐庶は『出師表』を手に取った。

「孔明殿がここに記した『先帝の志』――それは単なる復讐ではなかった。真の漢室復興とは何か。忠義とは何か。そして…愛する者を守るということの本当の意味とは何か」

徐庶の瞳に、遠い昔の炎が宿った。

「姜維よ、もしもお前にその気があるなら、一人の男の物語を聞いてはくれないか。それは史書には正しく記されず、民間の物語では誇張され、真実が見えなくなってしまった一人の男の物語を」

姜維は深く頷いた。

「ぜひお聞かせください、先生」

徐庶は竹簡を大切そうに膝の上に置き、遠い過去を見つめるように空を仰いだ。

「それは今から七十年ほど前のことじゃ。私はまだ徐福と名乗り、剣を振るって世を渡り歩く、血気盛んな若者だった...」

夕日が山の向こうに沈み始める中、老人の語りが始まった。

それは一人の青年が、任侠から学者へ、そして軍師へと変貌を遂げながら、時代の荒波に翻弄され、ついには自らの信念で歴史を切り拓いていく壮大な物語の序章だった。

風が庭園の木々を揺らし、どこからか鳥の声が聞こえてくる。
しかし姜維の耳には、もはやそれらの音は届いていなかった。
姜維の心は既に五十年前の中原へと飛んでいた。

そこには、誰も知らない徐庶の真実が待っていたのである。

 

第一章 任侠と学問の狭間で

「私の本名は徐庶。字は元直という。豫州颍川の出身だが、家は貧しく、いわゆる寒門の生まれだった」

徐庶の声は夜気に溶けていく。
既に日は完全に沈み、庭園には松明の灯りが揺れていた。

「若い頃の私は…今思えば恥ずかしい限りだが、学問などには見向きもせず、剣術ばかりに明け暮れていた。いや、剣術と言えば聞こえは良いが、実際は街の不良どもと徒党を組んで、日々喧嘩に明け暮れる毎日だった」

姜維は意外そうな顔をした。
目の前の品格ある老人からは、とても想像できない過去である。

「信じられないか?」

徐庶は苦笑いした。

「しかし事実だ。当時の私は『任侠』を気取っていたが、実際は単なる街の荒くれ者だった。ただし、ひとつだけ誇れることがあった。私は弱い者を助けるためなら、どんな強い相手にでも立ち向かった」


時は中平六年(189年)、洛陽から遠く離れた颍川の街で、一人の青年が剣を抜いていた。
徐福、後の徐庶である。

「貴様ら、何をしている!」

徐福の怒声が響いた。
徐福の前には、豪商の息子らしい男が数人の手下と共に、一人の少年を取り囲んでいる。
少年は震えながらも、必死に何かを守るように身を屈めていた。

「何だお前は」

太った男が振り返る。

「関係ない奴は消えろ」

「関係ないだと?」

徐福の目が燃えた。

「弱い者をいじめる奴を見過ごすほど、俺は落ちぶれちゃいない」

剣が鞘から滑り出る。
刃が松明の光を反射して、周囲を金色に染めた。

「こいつが何を盗んだって?」

「父の店から銭を盗んだのだ。証拠もある」

徐福は少年を見下ろした。
少年は涙を流しながら首を振る。

「やってません…母が病気で、薬代が必要だっただけなのに…」

「ほら見ろ、白状したじゃないか」

太った男が嘲笑う。

「待て」

徐福は手を上げた。

「薬代が必要だと言っただけで、盗んだとは言っていない。証拠とやらを見せてみろ」

男が差し出した袋を見ると、確かに豪商の印が押してある。
しかし徐福は気づいた。

「この印…新しすぎやしないか?」

男の顔が青ざめる。

「何を言って...」

「この少年を陥れるために、わざわざ新しい印を押したな?本当は少年が拾った銭に、後から印を押したのだろう」

図星だった。
男は狼狽し、手下たちに目配せする。

「やれ!」

五人の男が一斉に徐福に襲いかかった。
しかし徐福の剣技は確かだった。
街の不良相手に鍛えた腕は、実戦で十二分に通用した。

一太刀、二太刀。
男たちは次々と倒れていく。
最後に残った太った男は、恐怖で腰を抜かしていた。

「次、同じことをしたら、その時は命はないと思え」

徐福は剣を鞘に収めると、少年に手を差し伸べた。

「大丈夫か?」

「あ、ありがとうございました…」

「母親の薬代はどうする?」

徐福は懐から銭を取り出した。

「これを使え」

「でも…」

「いいから取れ。ただし条件がある」

徐福は真剣な目で少年を見つめた。

「お前も強くなれ。そして誰かが困っているときに、お前が助けてやるんだ」

少年は深く頷いた。

「必ず…必ず強くなる」

その時、遠くから太鼓の音が聞こえてきた。
官憲の知らせである。
豪商が役人に訴え出たのだろう。

「まずいな」

徐福は舌打ちした。

「逃げるぞ」

しかしすでに遅かった。
角の向こうから松明を持った兵士たちが現れる。

「そこにいるのは徐福か!」


「その時の私は、まだ若く血気盛んだった。逃げるという選択肢は頭になかった」

徐庶は遠い目をした。

「だが、少年を巻き込むわけにはいかない。私は少年に逃げるよう言い、一人で兵士たちと向き合った」

「しかし多勢に無勢では…」

「そうだ。案の定、捕まってしまった。しかも運の悪いことに、その豪商は役人と癒着していた。私に待っていたのは、正当な裁きではなく、見せしめのための処刑だった」

姜維は息を呑んだ。

「だが、ここからが面白い」

徐庶の目に微かな笑みが浮かんだ。

「私には一人、石韬という親友がいた。奴は私と違って学問を好む男だったが、友情に厚い男でもあった」


牢獄の中で、徐福は処刑の日を待っていた。
湿った藁の上に座り、小さな窓から見える星を眺めている。

「徐福」

聞き覚えのある声に振り返ると、石韬が立っていた。

「石韬…なぜここに?」

「決まっているだろう。友を救いに来たのだ」

石韬は袋を差し出した。

「この中に女物の化粧道具が入っている。顔に白粉を塗れ」

「何のつもりだ?」

「変装だ。明日の朝、囚人の移送があるだろう。その時に紛れて逃げるのだ」

徐福は首を振った。

「お前まで巻き込むわけにはいかない」

「馬鹿を言うな」

石韬の目が光った。

「お前が今まで何人の弱者を救ってきたと思っている。そのお前を見殺しにできるか」

「だが…」

「いいから顔を塗れ。私がここまで来たのは、お前に救われた人たちが皆、協力してくれたからだ。あの少年も、その母親も、今まで助けた商人たちも皆だ」

徐福は驚いた。
自分が忘れかけていた小さな善行を、人々は覚えていてくれたのだ。

「人は一人では生きられない」

石韬は続けた。

「お前がそれを教えてくれた。今度は私たちがお前を救う番だ」

翌朝、白粉で変装した徐福は、女囚に紛れて移送の列に加わった。
しかし役人も馬鹿ではない。
すぐに変装が見破られてしまう。

「逃亡囚だ!捕らえろ!」

だが、その瞬間、街の至る所から人々が現れた。
商人、職人、農民...徐福が今まで助けてきた人たちだった。

「こっちだ!」

「急げ!」

人々に守られながら、徐福は何とか街の外れまで逃げることができた。
しかし追っ手はしつこく、ついに川岸で追い詰められてしまう。

「もうだめか…」

その時、対岸から声が聞こえた。

「徐福!こちらだ!」

石韬が小舟で迎えに来ていたのだ。

徐福は川に飛び込んだ。
冷たい水が全身を包む。
必死に泳ぎ、何とか小舟にたどり着く。

「助かった…」

「まだだ」

石韬は櫂を漕ぎながら言った。

「これから荆州に向かう。そこなら劉表が治めていて、安全だ」

「荆州か…」

「そして徐福よ、一つ約束してくれ」

石韬は真剣な顔で振り返った。

「もう剣だけに頼る生き方はやめろ。学問を身につけるのだ」

「学問?俺には無理だ」

「無理ではない。お前には人を見る目がある。そして何より、正義感がある。それを学問で磨けば、剣よりもはるかに多くの人を救うことができる」

徐福は黙って考えた。
確かに剣だけでは限界がある。
もっと根本的に世の中を変えるには…

「分かった」

徐福は頷いた。

「やってみよう」

「それでいい」

石韬は微笑んだ。

「荆州には司馬徽という素晴らしい学者がいる。きっと君の師となってくれるだろう」

小舟は静かに川を下っていく。

徐福の新しい人生が始まろうとしていた。


「このようにして私は荆州へと向かった」

徐庶は語りを一旦止めた。

「任侠から学識者へ。それは私の人生最初の大きな転換期だった」

「石韜さんは素晴らしい友人ですね」

姜維が感嘆した。

「そうだ。石韜がいなければ、今の私はない。そして荆州で私は運命的な出会いを果たすことになる。一人は司馬徽先生、もう一人は...」

徐庶は意味深に微笑んだ。

「諸葛亮という青年だった」

 

第二章 劉備との出会いと信頼

「荆州での日々は、私にとって人生で最も充実した学びの時期だった」

徐庶の声に懐かしさが滲んだ。
夜も更けているが、二人とも物語に夢中になっていた。

「司馬徽先生は『水鏡先生』と呼ばれる名士で、その人物鑑定の能力は天下に知れ渡っていた。先生の下で私は初めて本格的な学問というものに触れた。兵法、政治、歴史…それまで剣しか知らなかった私には、まさに新世界の扉が開かれたのだ」

「そして諸葛亮殿との出会いは?」

「孔明...奴との出会いは運命としか言いようがない」

徐庶の目が遠くを見つめた。

「初めて会った時、私は奴が将来天下に名を馳せることを確信した。そして同時に、私などは足元にも及ばない大器だということも」


建安二年(197年)の秋、荆州襄陽の郊外。

司馬徽の屋敷で学問に励んでいた徐庶の前に、一人の青年が現れた。
年の頃は徐庶より少し若く、八尺の長身に端正な顔立ち。
しかし何より印象的だったのは、その瞳に宿る深い知性の光だった。

「君が徐元直殿か。私は諸葛亮、字を孔明という」

「諸葛孔明...」

徐庶は立ち上がった。

「お噂はかねがね。琅邪の名門のご出身と聞いている」

「出自など関係ない」

諸葛亮は微笑んだ。

「今は皆、乱世を生きる一介の書生に過ぎない」

二人はすぐに意気投合した。
共に司馬徽の教えを受け、共に議論を交わし、共に天下の行く末を案じた。
しかし議論すればするほど、徐庶は諸葛亮の底知れぬ才能を感じずにはいられなかった。

「孔明よ、君はどう思う?」

ある日、徐庶は天下の情勢について尋ねた。

「曹操は既に朝廷を手中に収め、袁紹も河北に大きな勢力を築いている。劉表殿は荆州を治めてはいるが、どこか決断力に欠ける。この乱世、誰が天下を統一すると思うか?」

諸葛亮は少し考えてから答えた。

「元直、それは間違った問いかけというものだ」

「何?」

「誰が天下を獲るかではなく、誰が天下を獲るべきかを考えるべきだ」

諸葛亮の目が輝いた。

「曹操は確かに有能だが、漢室を蔑ろにしている。袁紹は力はあるが器が小さい。劉表殿は人格者だが、時代が求める決断力に欠ける」

「では誰が?」

「劉備だ」

徐庶は驚いた。
劉備の名は知っていたが、その時点では袁紹の元に身を寄せる一介の武将に過ぎなかった。

「劉備?あの?」

「そうだ。劉皇淑こそが真の漢室の血を引き、そして何より『仁』を体現している人物だ。天下の民が真に求めているのは、武力でも権謀術数でもない。仁政なのだ」

諸葛亮の確信に満ちた言葉に、徐庶は感銘を受けた。
この青年は単なる学者ではない。
真の政治家の眼を持っているのだ。

「だが孔明よ、劉備殿は今は劉表殿の客将の身だろう?」

「時が来れば、必ず風雲は変わる」

諸葛亮は立ち上がり、窓の外を見つめた。

「その時に備えて、我らは自分を磨いておかねばならない」


建安六年(201年)、ついにその時が来た。

劉備が新野に拠点を構えたのである。
劉表から新野を任され、劉備は独自の勢力拡大を図り始めていた。

「元直よ、君は新野に向かってはどうか」

司馬徽がある日、徐庶に提案した。

「劉備殿は人材を求めておられる。君の才能を活かす時が来たのではないか」

「しかし、私などまだまだ…」

「謙遜はよい。過ぎれば好機を逃す」

司馬徽は厳しい表情で言った。

「学問は実践してこそ意味がある。頭の中だけの知識では、民を救うことはできん」

諸葛亮も賛成した。

「元直、水鏡先生の言う通りだ。君にはその時が来ている」

「だが孔明、君はどうするのだ?」

「私はいい...」

諸葛亮は首を振った。

「もう少し時を待つ。劉備殿が真に人材を渇望する時まで」

「しかし…」

「案ずるな。いずれ我らは再び相まみえる。その時は共に天下国家のために尽くそうではないか」

こうして徐庶は、親友と師の後押しを受けて新野へ向かった。
しかしその道中、徐庶は一つの決断をした。
正体を明かさず、まず劉備という人物を見極めようと。

そこで徐庶が名乗ったのが「単福」という偽名であった。


新野の街は活気に満ちていた。
劉備の善政により、民衆の表情は明るく、市場には笑い声が響いている。

「これが仁政というものか...」

徐庶は感心した。
確かに諸葛亮の見立ては正しかった。
劉備は真に民のことを考えている君主なのだ。

宿に荷を置いた徐庶は、街を歩きながら考えた。
どうやって劉備に接近するか。
直接名乗り出るのは簡単だが、それでは劉備の人となりを見極められない。

その時、ふと口ずさんだ歌が運命を変えた。

「山谷に賢ありて明主に投ぜんと欲す 明主は賢を求むれども却って吾を知らず」

古い楽府の一節だった。
しかし、それを聞いた一人の男が振り返った。

「今の歌は?」

見ると、中年の武将が立っている。
関羽であった。

「ああ、これは古い歌で...」

「いや、その歌詞に込められた意味だ」

関羽の目が鋭く光った。

「君は何者だ?」

徐庶は慌てた。
まさかこんなところで劉備の義弟に会うとは。

「私は単福と申します。各地を放浪する一介の学者に過ぎません」

「単福…」

関羽は徐庶をじっと見つめた。

「兄者にお会いしたいと思うのだが...」

「兄者とは?」

「劉備殿だ」

その夜、徐庶は劉備と初めて対面した。
噂に聞いた通りの人格者で、温厚な笑顔の中に深い慈愛を湛えていた。

「単福先生とお見受けいたします。関羽から伺いました。何か我らにお聞かせいただけることがあるでしょうか?」

劉備の謙虚な態度に、徐庶は感動した。
これほど身分の高い人物が、素性も分からない流浪の学者に対してこのような敬意を示すとは。

「恐れ入ります。私は天下の情勢について学んでおります。もしお役に立てることがあれば…」

「ぜひお聞かせください」

劉備の真剣な眼差しに、徐庶は決意した。
この人になら、すべてを託せるかもしれないと。

「北方に曹仁という武将がおります。奴が近々、新野を攻めてくる可能性があります」

劉備の顔が引き締まった。

「曹仁が?何か根拠が?」

「曹操は荆州を手に入れたがっています。手始めに、まず新野を奪おうと考えるでしょう。曹仁はその先鋒となる物です」

「なるほど...」

劉備は深く頷いた。

「もしそうなれば、我らはどう対処すべきでしょうか?」

徐庶は心の中で微笑んだ。
劉備は自分の意見を求めている。
それも高圧的にではなく、本当に教えを乞う姿勢で。

「まず敵の戦法を知ることです。曹仁は『八門金鎖陣』という陣形を得意としています」

「八門金鎖陣?」

「古代の兵法書にある陣形で、八つの門を設けて敵を混乱させる戦法です。しかし...」

徐庶は自信を持って続けた。

「この陣には破り方があります」

劉備の目が輝いた。

「教えていただけますか?」

「もちろんです。ただし、実際の戦いで試していただく必要があります」

こうして徐庶は劉備の軍師となった。

「単福」という偽名のままで。


「そして間もなく、曹仁が本当に攻めてきたのだ」

徐庶は語りを続けた。

「私の予想は的中し、劉備殿からの信頼は一気に高まった」

「八門金鎖陣を破られたのですね?」

「そうだ。あの時の劉備殿の喜びようと言ったら…まるで子供のようだった」

徐庶は懐かしそうに笑った。

「『単福先生は天から遣わされた軍師だ』と手を取って喜んでくださった」

「それで正体を明かされたのですか?」

「いや」

徐庶は首を振った。

「まだだった。私はもう少し劉備殿を見極めたかったのだ. そして何...」

老人の表情が急に曇った。

「この頃から、孔明への思いが複雑になり始めていた。孔明の才能を知るがゆえに、私は自分の限界を感じ始めていたのだ」

姜維は黙って聞いていた。

「だが、運命は私に選択の時を与えることになる。程昱という男の策略によって」

徐庶の声が低くなった。

「それはまさに、私の人生最大の試練の始まりだった」

 

第三章 謀略の手紙、揺れる心

「程昱という男をご存知か?」

徐庶の声が急に重くなった。
夜風が庭園の木々を揺らし、松明の炎が不安げに揺れている。

「曹操の謀臣として名高い人物ですね」

姜維は頷いた。

「確か兗州の出身で、曹操が最も信頼した軍師の一人と聞いております」

「そうだ。だが奴の恐ろしさは、単なる軍略にあるのではない」

徐庶は深いため息をついた。

「人の心の奥底を見抜き、その最も弱い部分を突いてくる。まさに梟雄のような男だった」

老人は立ち上がり、庭園の奥へと歩いた。
そこには小さな祠があり、線香の香りが夜気に漂っている。

「私の母は...毅然とした女性だった」

徐庶は祠の前で手を合わせた。

「夫を早くに亡くし、女手一つで私を育ててくれた。厳しくも愛情深く、私に正しい道を教えてくれた人だった」

「その母上を、程昱が…」

「利用したのだ。最も卑劣な方法で」


建安十二年(207年)の秋、新野の劉備邸では、徐庶と幕下に加わった諸葛亮が地図を広げて議論していた。

「元直、曹操の動きが気になりますな」

諸葛亮が長江流域を指差した。

「荆州への侵攻が本格的になるのも時間の問題だ」

「ああ」

徐庶は頷いた。

「劉表殿の体調も優れないと聞く。この機に乗じて曹操が動いてくるのは間違いない」

徐庶は「単福」という偽名を捨て、真の名前で劉備に仕えていた。
劉備の信頼も厚く、新野の政治は順調に進んでいる。
民は平和を謳歌し、兵士たちの士気も高い。
まさに理想的な小国家が築かれていた。

「だが心配なのは...」

諸葛亮が声を潜めた。

「曹操は荊州に侵攻してくるだろう。そして必ず何か策を弄してくる」

「策?」

「元直、君は自分の弱点を知っているか?」

徐庶は考え込んだ。
武勇では関羽や張飛に及ばない。
知略では諸葛亮に劣る。
では自分の弱点とは...

「母だ」

諸葛亮は頷いた。

「君の母上への孝行は知っておるが、それは弱点になる。曹操がそれを見逃すはずがない」

「だが母は故郷の颍川にいる。曹操の勢力圏内だが、一介の老婆に何ができる?」

「それが分からないから恐ろしいのだ」

その時、外で馬蹄の音が響いた。
急を告げる早馬の音だ。

「何事だ?」

劉備が現れ、三人は急いで出迎えた。
馬上の使者は疲労困憊の様子で、震える手で書状を差し出した。

「徐軍師。これを...」

徐庶は書状を受け取った。
見覚えのある筆跡。
母の字だった。

しかし、手紙を開いた瞬間、徐庶の血の気が引いた。

『元直へ 母は今、曹丞相の元で手厚い保護を受けている。曹丞相は汝の才能を高く評価され、ぜひとも配下に迎えたいとのこと。母としても息子が天下の英傑に仕えることを望んでいる。速やかに許昌へ参られよ。 母より』

「何と書いてある?」

劉備が心配そうに尋ねた。

徐庶は答えることができなかった。
手が震え、文字がぼやけて見える。

「元直?」

諸葛亮が徐庶の肩に手を置いた。

「どうした?」

「母上が...曹操の元にいるという」

劉備の顔が青ざめた。

「それは...」

「曹操が母を拉致し、私を脅迫している」

徐庶の声が震えた。

「母上を人質にして、私を引き抜こうというのだ」

諸葛亮は手紙を見せてもらった。
しばらく眺めてから、眉をひそめた。

「徐庶、この手紙...何か変だ」

「何が?」

「筆跡は確かに君の母上のものに見える。だが...」

諸葛亮は文面を指差した。

「この表現、君の母上が使うだろうか?『曹丞相』『天下の英傑』...いかにもおかしくないか?」

徐庶はハッとした。
確かに母はもっと毅然とした言葉遣いをする女性だった。

「偽物の可能性があるということか?」

「可能性はある。だが...」

諸葛亮は困った顔をした。

「筆跡があまりにも似すぎている。普通の偽造では、これほど精巧には作れない」

劉備が口を開いた。

「元直殿、もしこれが本物だとしたら、我らは君を引き止めることができぬ。」

「主公...」

「だが...」

劉備の目が優しく光った。

「もし偽物なら、これは我らへの挑戦状でもある。元直殿、君はどう考える?」

徐庶は答えに窮した。
母のことが心配で仕方がない。
しかし、これまで築いてきた劉備との信頼関係、新野の民との絆、そして諸葛亮との友情・・・すべてを捨てることができるだろうか。

「少し...考える時間をください」

「もちろんだ」

劉備は頷いた。

「ゆっくり考えてくだされ」


その夜、徐庶は一人で庭を歩いていた。
月が雲に隠れ、辺りは暗い。
心の中も同じように混沌としていた。

「母上...」

幼い頃の記憶が蘇る。
父を亡くした後、母は必死に働いて徐庶を育ててくれた。
夜遅くまで機を織り、朝早くから畑仕事をして。
それでも徐庶には愛情を注ぎ続けてくれた。

『元直、人は必ず誰かのために生きるものです。自分だけのために生きる人生は空しいものよ』

母の言葉が耳に響く。

『じゃが、誰かのために生きるということは、時として辛い選択を迫られるということでもある』

当時は意味が分からなかった言葉が、今になって痛いほど理解できる。

「元直」

振り返ると、諸葛亮が立っていた。

「眠れないのか?」

「君もか」

二人は並んで夜空を見上げた。

「孔明、君ならどうする?」

徐庶が尋ねた。

「難しい問題だ」

諸葛亮は率直に答えた。

「孝と忠、どちらも大切なものだ」

「だが選ばなければならない」

「本当にそうだろうか?」

諸葛亮は徐庶を見つめた。

「元直、君の母上はどんなお方だ?」

「正義感の強い、誇り高い女性だ。決して息子に不義を勧めるような人ではない」

「それなら答えは明らかではないか」

徐庶は諸葛亮の言葉の意味を考えた。

「君の母上が本当に曹操の元にいるなら、決して息子に劉備殿を裏切るよう求めはしないだろう。むしろ...」

「むしろ?」

「『私のことは気にするな、お前の信じる道を行け』と言うのではないか?」

徐庶の目に涙が浮かんだ。
その通りだった。
母はそういう人だった。

「では、あの手紙は...」

「偽物に違いない。だが問題は、君の母上が本当に曹操の手中にあるかもしれないということだ」

二人は沈黙した。

「元直」

諸葛亮が再び口を開いた。

「ひとつ提案がある」

「何だ?」

「使者を颍川に送ろう。真実を確かめるために」

「だが危険すぎる…」

「この私が行く」

徐庶は驚いた。

「君が?なぜそこまで?」

「君は私にとっても劉備殿にとっても必要なお方。そして何より...」

諸葛亮の目が輝いた。

「これは曹操が仕掛けてきた戦いだ。軍師として、この挑戦を受けて立ちたい」

徐庶は諸葛亮の手を握った。

「かたじけない、孔明」

「礼には及びません。明日の朝一番に出発するとしよう」


三日後の夜、諸葛亮が戻ってきた。
その表情は複雑だった。

「どうだった?」

徐庶が駆け寄る。

「君の母上は...確かに曹操の元にいる」

徐庶の心臓が止まりそうになった。

「だが」

諸葛亮は続けた。

「手紙は偽物だ」

「やはり...」

「君の母上に会うことはできなかったが、使用人から話を聞けた。母上は確かに軟禁状態にあるが、息子への手紙など書いていないという」

「では、あの筆跡は...」

「程昱の仕業だ。奴は君の母上に無理矢理習字を書かせ、それを元に偽造したのだ」

徐庶は拳を握りしめた。

「許せぬ」

「さらに悪いことに」

諸葛亮の表情が曇った。

「君の母上は程昱にこう言ったそうだ。『息子が主君を裏切って曹操に仕えるなら、私は自害する』と」

徐庶は膝から崩れ落ちた。

「母上が...」

「君の母上は、君の忠義を信じている。決して裏切らないと信じているのだ」

劉備と関羽、張飛も現れた。
皆、心配そうに徐庶を見つめている。

「元直殿」

劉備が優しく声をかけた。

「つらいでしょうが、決断の時です」

徐庶は立ち上がった。
涙を拭い、偽の手紙をしっかりと握りしめる。

「劉備殿。私は決めました」

全員が固唾を呑んで見守る中、徐庶は続けた。

「私はこれからも劉備殿にお仕えします。母の真の願いは、私が正しい道を歩むことです。たとえ母の命と引き換えになっても、私は忠義を貫きます」

「元直殿...」

劉備の目にも涙が浮かんだ。

「これが私の答えです」

徐庶は偽の手紙を強く握りしめた。

「程昱よ。曹操よ。私の忠義がどれほどのものか、思い知るがいい」

炎の光が徐庶の決意に満ちた顔を照らしていた。


「私は決断した」

徐庶は振り返った。

「しかし姜維よ、あの時の苦しみは言葉では表現できない。母を見捨てるような気持ちだった」

「でも先生は正しい選択をされたのです」

「果たしてそうだったのか...」

徐庶の表情が再び暗くなった。

「実は後で知ったことだが、母は本当に自害していたのだ。私の決断を聞いた程昱が、母上に伝えたのだ」

姜維は言葉を失った。

「だが不思議なことに、私は後悔しなかった。なぜなら母の最期の言葉を聞いたからだ」

「最期の言葉?」

「『息子が義を選んだ。私は誇らしい』と言って亡くなったそうだ」

徐庶の目に涙が光った。

「母上は分かっていたのだ。真の孝行とは何かを」

老人は祠に向かって深く頭を下げた。

「母上、私はあなたの教えを守り抜きました」

夜風が二人の間を吹き抜けていく。
遠くで鐘の音が響いた。

「さて姜維よ、まだ夜は長い。続きを話そう」

徐庶は再び席に戻った。

「この決断の後、私と孔明は更なる試練に立ち向かうことになる。赤壁の戦いが近づいていたのだ」

 

第四章 忠義の決断と涙の炎

「その夜のことは、今でも鮮明に覚えておる」

徐庶は祠から立ち上がり、庭園の奥へと姜維を導いた。
そこには小さな池があり、月光が水面に映って揺らめいている。

「決断の後、私は一人でここと同じような場所にいた。新野の劉備邸の庭だった。あの偽の手紙を握りしめて、炎を見つめていた」


建安十二年(207年)の深夜、新野の劉備邸の庭園。

徐庶は松明の前に跪いていた。
手には程昱が偽造した母の手紙。
炎が揺らめき、文字が踊るように見える。

「母上...」

幼い頃の記憶が次々と蘇る。
父が病で倒れた夜、母が徐庶の手を握って言った言葉。

『元直、人は誰でも大切な人を失う時が来ます。でもその時、残された者は生きていかなければならない。そして生きている限り、正しいことをしなければならないのです』

当時七歳だった徐庶には、その意味が分からなかった。
しかし今、三十を過ぎた徐庶には痛いほど分かる。

「正しいこととは何なのでしょうか、母上」

風が吹き、松明の炎が大きく揺れた。
まるで母が答えているかのように。

徐庶は手紙を炎に近づけた。
紙の端が焦げ始める。

「待て」

振り返ると、劉備が立っていた。
月明かりの中でも、その優しい表情がよく見える。

「劉備殿...なぜこのような夜更けに」

「君が心配でな」

劉備は徐庶の隣に座った。

「重大な決断の前には、人は一人で考え込むものだ。だが時として、一人では答えが見つからないこともある」

徐庶は手紙から目を離せずにいた。

「劉備殿は、私がどのような決断を下そうとも受け入れてくださるとおっしゃいました」

「それは変わらぬ」

「では、もし私が曹操の元へ行くと言ったら?」

劉備は少し考えてから答えた。

「寂しく思うだろう。だが君を責めたりはしない。私にも大切な母上がいた...」

「劉備殿...」

「しかし元直殿」

劉備の声に深みが増した。

「君の母上は、どのような方だったのか教えてくれまいか」

徐庶は母の思い出を語り始めた。
貧しい中でも決して卑屈にならず、近所の困った人々を助け続けた母。
夫を失った悲しみを表に出さず、息子のために強く生きた母。

「素晴らしいお方だ」

劉備は頷いた。

「君の母上の真の願いを考えてみては」

劉備は優しく微笑んだ。

「母親というものは、息子が正しい道を歩むことを何より望むものです」

その時、足音が近づいてきた。諸葛亮、関羽、張飛が現れる。

「元直、一人で悩んでいたのか」

諸葛亮が心配そうに声をかけた。

「俺たちも眠れなくてな」

張飛が豪快に笑った。

「こんな時は皆で酒でも飲みながら話した方がいい」

関羽が静かに口を開いた。

「元直殿、拙者は義を重んじる。だが同時に孝も尊ぶ。」

徐庶は仲間たちの温かな眼差しを感じ、涙が込み上げてきた。

「かたじけない」

「礼には及ばない」

諸葛亮が徐庶の肩に手を置いた。

徐庶は深く息を吸った。
そして、手紙をもう一度見つめる。

「母上...私には分かります。母上が何とおっしゃるか」

炎の向こうに母の姿が見えるような気がした。
厳しくも愛情深い表情で、徐庶を見つめている。

『元直、お前はもうわかっているはず。自分で考え、自分で決めなさい。後悔のないように』

「はい、母上」

徐庶は立ち上がった。
手紙を高く掲げ、炎の中に投じる。

竹簡は瞬く間に燃え上がった。
偽りの文字が炎に包まれ、やがて灰となって夜風に舞い散る。

「私は決めました」

徐庶の声は清々しかった。

「劉備殿と共に進みます。それが母の真の願いであり、私の信念でもあります」

劉備は深く頭を下げた。

「ありがとう、元直殿。君の忠義に心から感謝する」

「このような私を受け入れてくださるとは...」

諸葛亮が前に出た。

「徐庶、素晴らしい決意だが...」

「分かっている」

徐庶は頷いた。

「曹操は必ず報復してくる。」

「それについては策がある」

諸葛亮の目が光った。

「明日、詳しく話そう」

関羽が刀の柄に手を置いた。

「曹操がどのような手を使おうとも、我らが君を守る」

「そうだ!」

張飛が拳を振り上げた。

「曹操なんぞに負けてたまるか!」

徐庶は仲間たちの結束に心を打たれた。
これが自分の選んだ道だった。
利益や保身ではなく、信念と友情で結ばれた絆。

炎は静かに燃え続け、徐庶の決意を照らしている。


翌朝、劉備邸では軍議が開かれていた。

「曹操の反応が早い」

諸葛亮が地図を指差した。

「昨夜のうちに、軍勢が新野に向かったという情報が入っている」

「軍勢?」

劉備が眉をひそめた。

「元直を狙ったものか、それとも我らを狙ったものか...いずれにせよ、曹操は本気だ」

徐庶は冷静に尋ねた。

「数は?」

「少なくとも五万は下らない。それも曹操直属の精鋭だ」

関羽が立ち上がった。

「迎え撃とう。拙者が先鋒を務める」

「いや」

徐庶が手を上げた。

「これは私への挑戦でもある。策を講じたい」

「どのような?」

徐庶は地図を見つめながら考えを巡らせた。
新野の地形、敵の進路、味方の戦力...すべてを計算に入れる。

「孔明、君に頼みがある」

「何なりと」

「君は劉備殿と共に、一時新野から離れてくれ」

劉備が驚いた。

「それはどういうことか?」

「曹操の真の目的は私です。劉備殿や孔明まで巻き込むわけにはいきません」

「馬鹿を言うな」

張飛が怒鳴った。

「元直殿を見捨てるなど、できるはずがない!」

「張飛の言う通りだ」

関羽も同調した。

「我らは一心同体。共に戦い、共に死ぬ」

徐庶は感動したが、同時に責任も感じた。

「では、せめて民だけでも避難させましょう」

「それは賛成だ」

劉備が頷いた。

「罪のない民を危険に晒すわけにはいかない」

諸葛亮が新たな提案をした。

「元直、逆転の発想はどうだ?」

「逆転?」

「曹操は君を欲している。ならばその心理を利用しよう」

徐庶は諸葛亮の言葉に興味を示した。

「で、策は?」

「偽の投降を演じるのだ。そして敵の本陣に潜入し、内部から撹乱する」

「危険すぎる」

劉備が反対した。

「うまくいけば...」

徐庶は考え込んだ。

「曹操は私を生け捕りにしたがっている。殺すつもりはないはずだ」

「だが一歩間違えれば...」

「劉備殿」

徐庶は劉備を見つめた。

「私は昨夜、忠義を選びました。その忠義を今こそ証明したいのです」

劉備は長い沈黙の後、頷いた。

「分かった。だが必ず生きて帰ってくれ」

「もちろんです」

こうして、徐庶の危険な作戦が始まることになった。


その夜、新野郊外の森で、徐庶は一人で敵を待っていた。
月が雲に隠れ、辺りは暗い。
虫の声だけが響いている。

やがて、馬蹄の音が近づいてきた。
松明の明かりが木々の間を縫って進んでくる。

「出てこい、徐庶!」

斥候が叫んだ。
曹操軍の将軍のようだ。

徐庶は木陰から姿を現した。

「私が徐庶だ。何の用か?」

「曹丞相がお呼びだ。大人しく同行してもらおう」

「断る」

将軍は冷笑した。

「断る?君の母親の命がかかっているのだぞ」

「母はもういない」

徐庶の声は静かだった。

「何と?」

「程昱の策略はすべて見抜いている。母は既に亡くなった。曹操の脅しには乗らぬ」

将軍の表情が変わった。

「では力ずくでも連れて行く」

「やってみるがいい」

徐庶は剣を抜いた。
月光が刀身に反射して輝く。

「かかれ!」

兵士たちが一斉に襲いかかった。
しかし徐庶の剣技は想像を超えていた。
任侠時代に培った武術と、軍師として身につけた戦術が融合し、見事な戦いぶりを見せる。

一人、また一人と敵が倒れていく。

「やるではないか!」

将軍が自ら剣を振るった。

二人の激しい戦いが始まる。
将軍は確かに手強い相手だったが、徐庶の方が一枚上手だった。

将軍は徐庶の剣先を喉元に突きつけられて降参した。

「見事だ。だが、これで終わりと思うな」

「何じゃと?」

「曹丞相は既に別働隊を新野に向かわせている。劉備たちは...」

徐庶の血の気が引いた。

「まさか...」

これは陽動作戦だったのだ。
本当の目的は新野への攻撃。
徐庶を森におびき出している間に、本隊が新野を襲撃する計画だった。

「しまった!」

徐庶は馬に飛び乗り、新野に向かって疾駆した。


新野の町は既に炎に包まれていた。
曹操軍の兵士たちが暴れ回り、民家を焼き討ちしている。

「劉備はどこだ!」

「徐庶を出せ!」

兵士たちの怒号が響く中、劉備邸近くで激しい戦闘が繰り広げられていた。

関羽の青龍偃月刀が唸りを上げ、敵兵を次々と薙ぎ倒す。
張飛の蛇矛も暴れ回り、近づく者を寄せ付けない。

しかし敵の数があまりにも多い。

「劉備殿、もはやこれまでです」

諸葛亮が叫んだ。

「せめて劉備殿だけでも逃げてください」

「おまえたちを置いて逃げられるか」

劉備も剣を握って戦っていた。

その時、徐庶が駆けつけた。

「劉備殿!」

「元直!」

諸葛亮が振り返った。

「無事だったか」

「説明は後だ。まずは敵兵をなんとかせねば!」

徐庶は剣を抜き、敵陣に飛び込んだ。
森での戦いで疲労していたが、劉備の危機に力が湧いてくる。

劉備らの戦う姿は、まさに無敵だった。
しかし敵兵は多い。

「このままでは...」

その時、新たな松明の明かりが見えた。
今度は何だろうか。

しかしその中から聞こえてきたのは、新野の民たちの声だった。

「劉備様をお守りしろ!」

「恩ある劉備様を見捨てられるか!」

避難したはずの民たちが、武器を手に戻ってきたのだ。

老人も若者も、男も女も、皆が劉備たちのために戦おうとしている。

「おぉ...」

劉備の目に涙が浮かんだ。

民たちの参戦で形勢が逆転し始めた。
曹操軍は新野の予想外に激しい抵抗に動揺し、統制を失い始めた。

「撤退だ!」

敵将が叫び、曹操軍は慌てて引き上げていった。

戦いが終わった後、劉備邸の庭で傷の手当てをしていた。

「元直殿、今回の一件でよく分かった」

劉備が徐庶の手を握った。

「元直殿の忠義は本物だ。君は、我らにとってかけがえのない仲間だ」

徐庶は深く頭を下げた。

「劉備殿...」

諸葛亮が微笑んだ。

「元直、これで曹操も諦めるだろう。君の決意がいかに固いか、思い知ったはずだ」

しかし徐庶の表情は複雑だった。

「いや、曹操はまだ諦めないだろう。今度はもっと巧妙な手を使ってくる」

「如何にして?」

「分からぬ。だからこそ恐ろしいのだ」

夜風が吹き、松明の炎が揺れた。

戦いは終わったが、より大きな嵐の前触れに過ぎないことを、徐庶たちは感じていた。


「私は、忠義の道を選んだ」

徐庶は池の水面を見つめながら語った。

「だが姜維よ、真の試練はここからだった。曹操は確かに次の手を打ってきた。それは私たちの想像を遥かに超える規模の戦いだった」

「赤壁の戦いですね」

「そうじゃ」

徐庶は頷いた。

「あの戦いで、私と孔明は真の絆を築くことになる。そして劉備軍は、天下を二分する勢力へと成長していくのだ」

老人は立ち上がり、祠に向かって再び手を合わせた。

「母上、私はあなたの教えを守り抜きました。忠義を選んだことに、後悔はありません」

夜風が二人の間を吹き抜け、遠くで鐘の音が響いた。長い夜は続く。

 

第五章 諸葛亮との共闘と蜀の基盤固め

「曹操軍を撃退の後、私たちには束の間の平穏が訪れた」

徐庶は池のほとりに腰を下ろし、姜維も隣に座った。
月光が水面に映り、二人の顔を優しく照らしている。

「だがその平穏こそが、次なる大きな変化の前触れだった。孔明との真の協力関係が始まったのも、この時期だったのだ」


建安十三年(208年)春、新野の劉備邸。

徐庶と諸葛亮は書斎で地図を広げ、天下の情勢を分析していた。
曹操軍との小競り合いの後、両軍とも一時的な小康状態を保っていたが、大きな嵐が近づいていることは明らかだった。

「元直、劉表殿の病状が悪化しているという知らせが入った」

諸葛亮が憂鬱な表情で言った。

「やはりか」

徐庶は深いため息をついた。「

劉表殿が亡くなれば、荆州は必ず混乱する」

「そして曹操がその隙を突いてくる」

「間違いない。我らも決断の時が近づいている」

諸葛亮は筆を手に取り、何かを書き始めた。

「元直、率直に聞きたい。君は劉備殿をどう見ている?」

徐庶は少し考えてから答えた。

「仁徳の人だ。民を愛し、義を重んじる。だが...」

「だが?」

「天下を取るには、仁徳だけでは足りない。お優しすぎる」

諸葛亮は頷いた。

「その通り。だからこそ我らがいるのだ」

「我ら?」

「君と私だ」

諸葛亮の目が真剣になった。

「元直、君は軍略に長け、私は政略を得意とする。我らが力を合わせれば、劉備殿を真の英雄にできる」

徐庶は諸葛亮の言葉に深く感じ入った。

「孔明、君は最初から私をそのように見てくれていたのか?」

「もちろんだ。君は単なる軍師ではない。君には人の心を動かす力がある。新野の民たちが命を賭けて君を守ったのがその証拠だ」

徐庶は胸が熱くなった。

「孔明。では我らで劉備殿をお支えしよう」

「異論はない」

二人は固く手を握り合った。

この瞬間から、歴史上最も強力な軍師協働が誕生したのである。


数日後、予想通り劉表の訃報が届いた。
荆州は後継者争いで混乱し、曹操が大軍を率いて南下を開始したとの報せも入る。

劉備邸では緊急の軍議が開かれていた。

「来たるべき時が来た」

劉備が重々しく口を開いた。

「曹操が八十万の大軍で荆州に侵攻してくる」

関羽が身を乗り出した。

「八十万...さすがに多すぎる」

「正面からの戦いでは勝ち目がない」

張飛も珍しく冷静だった。

徐庶が地図を指差した。

「劉備殿、荆州を放棄して江東に向かうのはいかがでしょうか」

「江東?」

「孫権殿と同盟を結ぶのです」

諸葛亮が続けた。

「曹操の脅威は孫権殿にとっても同じです。共通の敵を前にすれば、同盟できます」

劉備は考え込んだ。

「だがそれでは荆州の民を見捨てることになる」

「劉備殿」

徐庶が立ち上がった。

「今は撤退すべきとき。民の命を守るためにも」

「いかにも」

諸葛亮も同調した。

「今ここで全滅すれば、誰も救えませぬ」

劉備は長い沈黙の後、決断を下した。

「分かった。江東に向かおう。だが民を見捨てられぬ。一緒に連れて行く」

「兄者!」

関羽が感動した声を上げた。

「それでこそ兄者だ」

張飛も目を潤ませた。

徐庶と諸葛亮は顔を見合わせて微笑んだ。

これが劉備の真の姿だった。


数日後、劉備軍は新野を出発した。
しかし軍勢だけでなく、数万の民も一緒についてきた。
老人も子供も、皆が劉備を慕って故郷を離れたのである。

行軍の途中、徐庶と諸葛亮は馬を並べて話していた。

「元直、この光景を見てどう思う?」

諸葛亮が振り返った。

民たちは疲れているが、誰一人として不平を言わない。
それどころか、劉備のためなら何でもすると言わんばかりの表情で歩いている。

「これが劉備殿のお力だな」

徐庶は感慨深げに言った。

「武力や権力ではなく、人徳で人を動かす」

「そして我らの役目は、その人徳をお支えすることじゃ」

「そうじゃな」

しかし行軍は困難を極めた。
民を連れているため進軍速度が遅く、曹操軍に追いつかれるのは目前があった。

「劉備殿」

徐庶が進言した。

「このままでは追いつかれます。せめて軍勢だけでも先行を」

「それはできぬ!」

劉備はきっぱりと答えた。

「民を見捨てることはできぬ」

その時、斥候が駆けつけてきた。

「曹操の先鋒隊が迫っております!」

劉備一行に緊張が走った。

「どのくらいの距離じゃ?」

徐庶が尋ねた。

「半日もすれば追いつかれるかと」

諸葛亮が馬から降りて地図を広げた。

「ここから長坂坡までは如何ほどか?」

「半日ほどでしょうか」

「ならば長坂坡で迎え撃とう」

徐庶が提案した。

「この地形を利用すれば、少数でも戦える」

劉備は民たちを振り返った。

「皆、すまない。もう少し急いでもらえぬか」

「劉備様、お気になさらず」

「我らは劉備様についていきます」

民たちの声援に励まされ、劉備一行は長坂坡を目指した。


長坂坡での戦いは激烈を極めた。
曹操軍の騎兵隊が襲いかかる中、関羽と張飛が奮戦し、徐庶と諸葛亮が戦術を指揮した。

「孔明、左翼が危険じゃ!」

徐庶が叫んだ。

「こちらはお任せを」

諸葛亮が手旗を振り、予備隊を左翼に向かわせる。

二人の連携は見事だった。
徐庶が戦場の状況を瞬時に把握し、諸葛亮がそれに応じて部隊を動かす。
まさに阿吽の呼吸である。

しかし敵の数があまりにも多い。
徐々に押され始めた。

「劉備殿、もはやこれまでです」

徐庶が血を流しながら言った。

「せめて民だけでも...」

劉備が悲痛な声を上げた。

その時、張飛が大声で叫んだ。

「俺が殿軍を務める!皆は先に行け!」

「張飛!」

「心配するな!この張翼徳、簡単には死なん!」

長坂坡での張飛の捨て身の戦いで時間を稼ぎ、劉備一行は何とか江夏まで逃れることができた。


江夏での再会は感動的だった。
劉表の嫡子・劉琦が劉備一行を出迎えた。
張飛も無事に生還し、一同は胸を撫で下ろした。

「よくぞ皆無事だった」

劉備が涙ながらに言った。

「劉備殿のおかげです」

徐庶が答えた。

「いや、そなたたちがいればこそだ」

夜になって、徐庶と諸葛亮は城の上で夜景を眺めていた。

「元直、今回の戦いで分かったことがある」

諸葛亮が口を開いた。

「何だ?」

「我らの連携は想像以上だということ」

徐庶は頷いた。

「確かに。君の戦略眼と私の実戦経験が組み合わされば、大きな力になる」

「これからも劉備殿をお支えしよう」

二人は固い握手を交わした。


翌日、孫権からの使者が到着した。
魯粛である。

「劉備殿、我が主君より同盟の提案がございます」

劉備は喜んだ。

「ありがたい申し出だ」

しかし魯粛は困った表情をした。

「ただし、条件がございます」

「条件?」

「孫権様は、同盟の証として軍師を一人派遣していただきたいとのことです」

一同は顔を見合わせた。

「それは…」

劉備が言いかけた時、諸葛亮が前に出た。

「私が行きましょう」

「孔明?」

徐庶が驚いた。

「江東との交渉には、私が参りましょう。元直は軍事面で劉備殿をお支えいただきたい」

徐庶は諸葛亮の真意を理解した。
これは二人の役割分担だった。

「分かった。だが必ず成功させろ」

「もちろんだ」

こうして諸葛亮は江東に向かい、徐庶は劉備を支えた。


諸葛亮が江東で舌戦を繰り広げている間、徐庶は劉備軍の再編成に取り組んでいた。

「劉備殿、軍の統制を見直す必要があります」

徐庶が震源した。

「如何に?」

「我が軍は、関羽殿、張飛殿の武勇に頼りすぎています。組織としての戦力を高めなければ」

劉備は納得した。

「確かにその通りじゃ。どうすればよいものか?」

徐庶は詳細な軍制改革案を提示した。
将校の階級制度、訓練方法の統一、補給体制の確立など、近代的な軍隊の基礎を築こうとしていた。

「素晴らしい案だ」

劉備が感嘆した。

「さっそく実行しよう」

改革は順調に進んだ。

兵士たちの士気も上がり、戦闘力は格段に向上した。

そして数週間後、諸葛亮が戻ってきた。

「元直、成功だ!」

「まことか?」

「孫権殿との同盟が成立した。そして...」

諸葛亮の目が輝いた。

「赤壁で曹操を迎え撃つことになった」

徐庶は深く頷いた。

「ついにこの時が来たか」

「ああ。そして元直の軍制改革を試す時でもある」

劉備が興奮して言った。

「天下分け目の戦いが始まる!」

関羽と張飛も拳を振り上げた。

「よし、曹操を叩きのめしてやろう!」


「私と孔明は、共闘を始めた」

徐庶は立ち上がり、池の水に手を浸した。
冷たい水が疲れた心を癒してくれる。

「孔明と共に指揮を執るようになったのもこの頃だったな」

姜維が微笑んだ。

「そうだ」

徐庶も微笑み返した。

「孔明は私より年下だったが、その才能は私を遥かに上回っていた。私は孔明を心から尊敬しておった」

「お互いの長所を認め合う関係だったのですね」

「その通りじゃ。そして姜維よ、これこそが真の友情というものだ」

徐庶は姜維を見つめた。

「相手を妬むのではなく、相手の才能を自分の成長の糧とする。さすれば、一人では到達できない高みに登ることができるのだ」

夜風が吹き、池の水面に波紋が広がった。

「さて、次は赤壁の戦いについて話そうかの」

徐庶は再び席に戻った。

「あの戦いで、私たちは曹操に決定的な打撃を与えることになる。そして劉備殿の天下取りへの道筋を開いたのだ」

月が雲の向こうに隠れ、辺りがより一層静寂に包まれた。

歴史の転換点となる大戦の物語が、今まさに語られようとしていた。

 

第六章 赤壁とその後 運命を切り拓く者たち

「赤壁の戦い…あの戦いこそが、天下の流れを決定づけた」

徐庶は夜空を見上げながら、深いため息をついた。
星々が瞬いているが、その光は遠い昔の記憶を照らしているようだった。

「姜維よ、君は赤壁の戦いをどのように聞いているか?」

「孔明先生の火計によって曹操軍が大敗を喫したと」

姜維が答えた。

「それは確かに事実だ。だが、その裏には多くの者たちの働きがあった。私もその一人だった」


建安十三年(208年)冬、赤壁。

長江の南岸に連合軍が布陣し、北岸には曹操の大軍が控えていた。
水面には霧が立ち込め、両軍の緊張が高まっていた。

孫権・劉備連合軍の陣営では、最後の作戦会議が開かれていた。

「火計の準備は整った」

諸葛亮が地図を指しながら説明した。

「問題は風向きだ。東南の風が吹かなければ成功しない」

周瑜が眉をひそめた。

「この季節に東南の風など…」

「必ず吹く」

諸葛亮が断言した。

「私が風を呼んでみせる」

一同がざわめいた。
そんな中、徐庶が静かに口を開いた。

「孔明、風のことは君に任せる。だが火計だけでは不十分だ」

「どういうことだ?」

周瑜が尋ねた。

「曹操は用心深い男だ。火計に気づけば必ず対策を講じる。我らには別の手が必要だ」

徐庶は立ち上がり、地図上の曹操軍の陣形を指した。

「ここを見てください。曹操軍の本陣はここにある。だが退路はこの一本道しかない」

「なるほど」

周瑜の目が光った。

「退路を断つということか」

「その通りです。火計で混乱させた隙に、少数精鋭で退路を襲う。そうすれば曹操軍は完全に包囲される」

劉備が感嘆した。

「素晴らしい策だ。だが誰がその危険な任務を?」

徐庶は胸を張った。

「私が行きます」

「徐庶!」

劉備が驚いた。

「劉備殿、私にお任せください」

諸葛亮が心配そうに言った。

「元直、それは危険すぎる。しくじれば...」

「心配はいらぬ」

徐庶は微笑んだ。

「私には秘策がある」


翌日の夜明け前、徐庶は数十名の精鋭を率いて出発した。
曹操軍の兵装を身につけ、完全に敵兵に化けていた。

「皆、覚えておけ」

徐庶が家臣たちに言った。

「我らは曹操軍の退却路を断つ。だが決して無理をするな。合図があったら即座に撤退だ」

「は!」

一行は夜陰に紛れて曹操軍の背後に回った。
徐庶の読み通り、退路の守備は手薄だった。

「あそこに陣地を築く」

徐庶が指示した。

「火計が始まったら行動開始じゃ」

家臣たちは迅速に陣地構築を始めた。
徐庶は遠くの水面を見つめていた。

「(孔明、頼むぞ)」


その頃、孫権・劉備連合軍の陣営では、諸葛亮が祭壇の上で風を呼ぶ儀式を行っていた。

「天よ、地よ、どうか東南の風を!」

諸葛亮の声が戦場に響き渡る。
するとどうだろう。
風向きが変わり始めたのだ。

「信じられん…」

周瑜が呟いた。

「今だ!」

諸葛亮が叫んだ。

火船が一斉に曹操軍に向かって進み始めた。
風に煽られた炎が曹操軍の船団を次々と包んでいく。

「うわあああ!」

曹操軍は大混乱に陥った。


曹操は本陣で状況を把握しようとしていた。

「何事だ!」

「火です!我が軍の船が燃えています!」

曹操の顔が青ざめた。

「すぐに撤退だ!陸路で北に向かう!」

しかし、退路に向かった曹操軍を待っていたのは、徐庶率いる伏兵だった。

「曹操はここを通さん!」

徐庶が剣を抜いて立ちはだかった。
曹操軍の先鋒は驚愕した。

「徐庶!貴様、なぜここに!」

「忠義のためだ!」

激しい戦闘が始まった。
徐庶の部隊は少数だったが、要所を押さえていたため曹操軍の退路を阻むことができた。

その隙に、周瑜率いる本隊が追撃を開始した。

「今こそ曹操を討つ時!」


曹操は窮地に陥った。
前方は徐庶の伏兵、後方は周瑜の追撃軍。

「丞相、このままでは...」

程昱が焦った。

曹操は徐庶を見つめた。

「徐庶か、貴様がここにいるとは。母親の仇討か?」

徐庶は堂々と答えた。

「曹操、私は貴様のことを忘れたことは一度もない!ここは通さぬ」

「ならば死ね!」

曹操が剣を抜いて徐庶に襲いかかった。
しかし徐庶の剣技は曹操を上回っていた。

「うぬ!」

曹操が後退する。
その隙に、徐庶は合図の矢を放った。
これは家臣たちに撤退を命じる合図だった。

「我らの役目は終わった!撤退だ!」

徐庶の部隊は見事に戦場から離脱した。


結果的に、曹操は辛うじて脱出に成功したが、その軍勢は壊滅的な打撃を受けた。
八十万と言われた大軍は、数万にまで減少していた。

赤壁の戦いの後、連合軍の陣営では勝利の宴が開かれていた。

「徐庶殿の働きがなければ、安々と曹操を取り逃がすところであった」

周瑜が称賛した。

「いえ、火計を成功させた孔明の功績です」

徐庶は謙遜した。

諸葛亮が徐庶の肩を叩いた。

「元直、此度ほど君の存在の大きさを思い知ったことはない」

「何を言う。孔明の風呼びこそ神業だった」

二人は笑い合った。
劉備も満足そうに頷いた。

「お二人の活躍があったればこその勝利だ」

孫権も劉備に杯を差し出した。

「劉備殿、今後ともよろしく頼む」

「もちろんです」


しかし徐庶は、曹操の表情が気になっていた。
あの時の曹操の目には、単なる怒りではなく、何か別の感情が宿っていた。

(あの男はまだ私のことを諦めていないのか?)

その夜、徐庶は一人で長江のほとりを歩いていた。
月光が水面を照らし、戦いの跡が残る対岸を見ることができた。

「元直」

振り返ると諸葛亮がいた。

「どうした、孔明」

「君は何か心配事があるようだが」

徐庶は苦笑した。

「孔明は何でもお見通しだな」

「長い付き合いゆえ」

諸葛亮も微笑んだ。

「曹操のことか?」

「あの男は私を幕下に加えることを諦めていないのやもしれぬ」

「それがどうした?」

「今後、曹操は私に接近してくるだろう」

諸葛亮は首を振った。

「元直、我らは君を信じている。我らの結束が揺らぐわけではない」

「そうじゃな」

「それに」

諸葛亮の目が真剣になった。

「曹操が接近してきたとしても、君の忠義は揺るがない」

徐庶は諸葛亮を見つめた。

「孔明、君は本当に心強い友じゃ」

「それは、お互いさまじゃ」

二人は再び固い握手を交わした。


数ヶ月後、劉備軍は荆州南部の統治を開始していた。
赤壁の勝利により、劉備の名声は天下に響き渡っていた。

「劉備殿、各地から人材が集まってきています」

徐庶が報告した。

「それは良いことだ。だが人材の見極めが重要だな」

「はい。孔明と私で慎重に見極めます」

劉備の統治は民に優しく、多くの人々が劉備を慕うようになった。
徐庶と諸葛亮は、内政と軍事の両面でこの基盤固めを支えた。

「元直、次は益州だな」

諸葛亮が地図を指した。

「そうだ。劉璋は暗愚で、益州は混乱している。絶好の機会だ」

「だが劉璋も同じ劉氏だ。劉備殿は攻めることを躊躇われるかもしれない」

徐庶は考え込んだ。

「それなら別の方法を考えよう。劉璋の方から我らを招くような状況を作ればいい」

「なるほど、君らしい発想だ」

こうして二人は益州攻略の準備を進めた。


一方、曹操は許都で赤壁の敗戦について考えていた。

「徐庶め...あの男がいる限り、劉備を侮ることはできん」

程昱が進言した。

「丞相、徐庶を調略してはいかがでしょうか」

「無駄だ」

曹操は首を振った。

「あの男の忠義は本物だ。金や地位では動かん」

「では?」

「別の方法を考えねばならん」

曹操の目に不穏な光が宿った。


「私と孔明は、劉備殿の基礎を築いた」

徐庶は立ち上がり、池の向こうを見つめた。

「赤壁の勝利は確かに大きかった。だがそれは始まりに過ぎなかった」

「その後の益州攻略も順調だったのですか?」

姜維が尋ねた。

「ああ、想像以上にな」

徐庶は振り返った。

「だが曹操も黙ってはいなかった。奴は新たな策を練っていたのだ」

夜風が強くなり、木々がざわめいた。

「次に話すのは北伐のことだ。孔明の悲願であり、私の最後の大仕事でもあった」

徐庶の表情に、深い哀愁が浮かんだ。
英雄たちに危機が迫っていることを、姜維は感じ取っていたのだろう。

「姜維よ、志を継ぐとはどういうことか、君にも分かる時が来るだろう」

月が雲の切れ間から顔を出し、二人の姿を優しく照らした。

歴史の大河は、なおも滔々と流れ続けている。

 

第七章 北伐と志の継承

「北伐…あの言葉を口にするたび、孔明の燃えるような眼差しを思い出す」

徐庶は深く息を吸い込んだ。
夜気が肺を満たし、遠い記憶が蘇ってくる。

「姜維よ、君も孔明先生の北伐に参加したな。あの時の君はまだ若く、魏の将軍だった」

「はい」

姜維が頷いた。

「あの時、私は孔明先生の人望に打たれ、蜀に降ったのです」

「そうだったな。だが君が知らないことがある。孔明の北伐には、表に出ない多くの苦労があったのだ」


建興五年(227年)春、成都。

劉備、関羽、張飛、そして曹操はこの世を去った。
蜀を平定した徐庶と諸葛亮は、劉備の遺志を引き継ぎ、魏と戦っていた。

蜀漢皇帝劉禅への出師の表が読み上げられた日、徐庶は丞相府で諸葛亮と最後の打ち合わせを行っていた。

「元直、本当に行くのか?」

諸葛亮が心配そうに尋ねた。

「当然じゃ」

徐庶は地図を見つめながら答えた。

「君一人に全てを背負わせるわけにはいかない」

「だが君には成都にいてもらわねば困る。馬謖も随行する。私一人で十分だ」

徐庶は首を振った。

「孔明、北伐は蜀の国運を賭けた戦いだ。魏に勝つためなら、私も戦場に立つ」

諸葛亮は徐庶の決意を理解した。

「分かった。だが無理はするな」

「それは私の台詞だ」

徐庶は微笑んだ。

「君こそ体を大切にしろ」


同年夏、祁山。

蜀軍は五丈原から祁山一帯に展開していた。
諸葛亮は天水、南安、安定の三郡を既に攻略し、関中は大いに震撼していた。

「元直、天水郡から降将が来ている」

諸葛亮が報告した。

「ほう、誰だ?」

「姜維という若い将軍だ。なかなか見どころがある」

徐庶は興味深そうに頷いた。

「会ってみよう」

天幕に姜維が連れてこられた。
彼はまだ二十代前半で、武人らしい凛々しさと知性を併せ持っていた。

「姜維と申します」

「私が徐庶だ。君の事は孔明から聞いている」

姜維は驚いた。

「徐庶殿...あの劉備殿の軍師」

「そうだ。だが今は孔明が丞相だ」

徐庶は諸葛亮を見た。

「君はなぜ降伏を?」

姜維は真摯に答えた。

「孔明先生の人徳に感じ入ったからです。また、魏の政治に疑問を感じていました」

「ほう」

「曹氏一族の専横、士族と寒門の格差、民への重税…これでは天下は治まりません」

徐庶と諸葛亮は顔を見合わせた。

「なるほど、君は単なる武将ではないな」

徐庶が言った。

「姜維」

諸葛亮が前に出た。

「君の志を聞かせてくれ」

「漢室復興です。そして民が平和に暮らせる世を築きたい」

徐庶は深く頷いた。

「よい志だ。我らと共に戦ってくれるか?」

「喜んで」

こうして姜維は蜀軍に加わった。


しかし、第一次北伐は思わぬ困難に直面していた。
馬謖が街亭で司馬懿軍に敗れたのだ。

「馬謖が!」

諸葛亮が愕然とした。

「落ち着け、孔明」

徐庶が肩に手を置いた。

「まだ手はある」

「どういうことだ?」

「街亭は確かに重要だが、我らには別の補給路がある」

徐庶は地図を指した。

「ここを見ろ。陳倉道経由で補給は可能だ。また、天水、南安の二郡は我が手中にある」

「だが司馬懿が迫っている」

「それなら迎え撃てばいい」

徐庶の目が光った。

「君と私が共に指揮を執れば、司馬懿とて侮れない」

諸葛亮は考え込んだ。
馬謖の敗戦により第一次北伐は撤退に終わろうとしていた。
しかし徐庶がいることで、状況は大きく変わろうとしていた。

「承知した」


祁山の決戦。

司馬懿率いる魏軍二十万と、諸葛亮・徐庶率いる蜀軍十万が対峙した。

「司馬懿め、ついに出てきたか」
徐庶が呟いた。

「元直、司馬懿は油断できぬ」
諸葛亮が警戒した。

「だからこそ燃える」

両軍の陣形が整った。
司馬懿は用心深く、正面攻撃を避けて持久戦を仕掛けてきた。

「孔明、あの男は勝負を避けるつもりだ」

「ならば挑発してみるか」

諸葛亮が司馬懿に女物の衣服を送りつけた。
これは「戦う勇気がないなら女の衣服でも着ていろ」という意味の侮辱だった。

司馬懿は激怒したが、部下たちが必死に止めた。

「仲達殿、これは諸葛亮の策略です」

「分かっている」

司馬懿は歯を食いしばった。

「だが...」

ここで徐庶が別の策を実行した。

「姜維、君に命じる」

「は!」

「精鋭五百を率いて、司馬懿軍の後方を襲え」

「承知しました」

姜維の別働隊が夜陰に紛れて魏軍の背後に回った。
翌朝、魏軍の兵糧庫が炎上した。

「何事だ!」

司馬懿が驚愕した。

「後方から蜀軍の別働隊が!」

「まさか、徐庶の策か」

司馬懿はついに決戦を決意した。

兵糧を失い、持久戦は不可能になった。


祁山の決戦が始まった。

司馬懿は正面から総攻撃を仕掛けた。
しかし、諸葛亮と徐庶は見事な連携を見せた。

「孔明、左翼を任せる」

「承知した」

徐庶は右翼を、諸葛亮は左翼を指揮した。
中央は趙雲が守った。

司馬懿軍の猛攻が始まった。
しかし蜀軍の陣形は崩れなかった。

「さすがは諸葛亮と徐庶...」

司馬懿が舌を巻いた。

戦いは一進一退を続けた。
しかし、兵糧の差が徐々に現れ始めた。
魏軍の士気が下がってきた。

「今が好機!」

徐庶が反撃の号令をかけた。

蜀軍が一斉に反撃に転じた。
魏軍は混乱し、司馬懿は苦戦を強いられた。

「撤退だ!」

司馬懿軍は祁山から撤退を開始した。


「勝った…」

諸葛亮が信じられないように呟いた。

「ああ、勝ったぞ」

徐庶も感慨深げだった。

蜀軍は大勝利を収めた。
司馬懿を撃退し、關中の大部分を制圧することに成功した。

「元直、君がいなければこの勝利はなかった」

「何を言う。君の八陣図があったからこそだ」

二人は固い握手を交わした。

姜維も駆け寄ってきた。

「先生、やりました!」

「姜維、そなたの働きも見事であった」

徐庶が称賛した。


しかし、勝利の喜びも束の間、成都から緊急の知らせが届いた。

「南蛮王・孟獲が叛乱を起こしています!」

諸葛亮の顔が曇った。

「背後を突かれたか」

「孔明、君は北伐を続けろ」

徐庶が言った。

「南蛮の件は私が処理する」

「だが...」

「心配するな。私には考えがある」

徐庶は成都に向けて出発した。


数ヶ月後、南蛮。

徐庶は孟獲と対峙していた。
しかし、彼の方法は武力制圧ではなく、話し合いによる解決だった。

「孟獲王、なぜ叛乱を起こした?」

「蜀の税が重すぎる!我が民が苦しんでいる!」

「分かった。では税を軽減しよう」

孟獲は驚いた。

「本当か?」

「ただし条件がある。蜀の一員として、外敵と戦ってはくれまいか?」

「外敵とは?」

「魏だ。あの国こそ真の敵だ」

徐庶は丁寧に魏の悪政を説明した。
孟獲は次第に理解を示した。

「なるほど、確かに魏は許せん」

「では協力してくれるな?」

「あい分かった」

こうして南蛮の乱は平和的に解決された。


翌年、諸葛亮は第二次北伐を開始した。
今度は陳倉を攻撃目標とした。

「元直、今度こそ長安を目指そう」

「ああ、必ず成功させる」

しかし、陳倉城は予想以上に堅固だった。
守将郝昭の守備は見事で、蜀軍は苦戦した。

「あの城は落ちそうにないな」

徐庶が呟いた。

「別の策を考えるか」

諸葛亮も同感だった。

その時、斥候が報告に来た。

「司馬懿軍が大軍で接近中です!」

「司馬懿...」

「如何に?」

徐庶が決断した。

「一度撤退しよう。無理は禁物だ」

「しかし...」

「孔明、君の体が心配だ。ここは一旦引き上げよう」

諸葛亮は徐庶の言葉に従った。

第二次北伐は撤退となったが、蜀軍の損失は最小限に抑えられた。


その後、第三次、第四次北伐が続いた。
徐庶の慎重な作戦により、蜀軍は大きな損害を出すことなく魏と互角に戦った。

しかし、連続する北伐により、諸葛亮の体は確実に蝕まれていた。

「孔明、少し休んではどうだ」

徐庶が心配した。

「まだ大丈夫だ」

諸葛亮は強がった。

「無理をするな。君に倒れられては困る」

「分かっている。だが、時間がない」

諸葛亮の表情に焦りが見えた。

「時間?」

「私はもう長くない。この体では、あと数年が限界だろう」

徐庶は愕然とした。

「何を言う!」

「隠しても仕方ない。私には分かる」

諸葛亮は微笑んだ。

「だからこそ、今のうちに成し遂げたい」


建興十二年(234年)、五丈原。

諸葛亮の第五次北伐が始まった。
これが最後の北伐となることを、徐庶は予感していた。

「孔明、今度こそ決着をつけよう」

「ああ、必ずや」

しかし、司馬懿は再び持久戦術を取った。
諸葛亮は焦りを募らせた。

「また持久戦か」

「焦るな、孔明」

徐庶が諭した。

「君らしくない」

「だが時間が...」

「時間であれば作ればよい」

徐庶は新しい策を提案した。

「屯田制を導入しよう。長期戦に備えるのだ」

「屯田制?」

「そうだ。兵士たちに農業をさせ、現地で兵糧を確保する」

この策により、蜀軍は長期駐留が可能になった。
司馬懿は困惑した。

「まさか、あの地で農業を始めるとは...」


しかし、過労は確実に諸葛亮を蝕んでいた。

ある夜、諸葛亮が倒れた。

「孔明!」

徐庶は急いで諸葛亮の元に駆けつけた。

「元直...」

諸葛亮の声は弱々しかった。

「何も言うな。すぐに成都に戻ろう」

「いや、ここに残る」

「無茶を言うな!」

「頼みがある」

諸葛亮が徐庶の手を握った。

「もし私に何かあったら、姜維を頼む」

「何を言っている」

「あの青年には才能がある。私の志を継げるのは姜維だけ」

徐庶の目に涙が浮かんだ。

「分かった。だが君は死なせない」


徐庶は必死に諸葛亮の看病をした。
しかし、医師の診断は厳しかった。

「もって数日でしょう」

徐庶は絶望した。
しかし、諸葛亮は天寿を全うしようとした。

「元直、後事を頼む」

「孔明...」

「姜維には北伐の志を継がせてくれ。魏延には軍事を任せる」

「分かった」

「そして君は…君は蜀を頼む」

諸葛亮の手が力なく落ちた。


建興十二年八月、諸葛亮逝去。享年五十四歳。

徐庶は親友を失った悲しみに打ちひしがれた。
しかし、徐庶には果たすべき約束があった。

「姜維」

「はい」

「君に孔明の志を託したい」

姜維は驚いた。

「私などに、そのような大役が…」

「そなたにはその資格がある」

徐庶は確信を持って言った。

「孔明もそう申していた」

「承知しました。微力ながら...」

「一人ではない。私も君を支える」

こうして、諸葛亮の志は次代に受け継がれた。


蜀軍は諸葛亮の死を秘匿したまま撤退を開始した。
司馬懿は追撃を仕掛けたが、徐庶の巧妙な殿軍戦術により、大きな損害を与えることはできなかった。

「徐庶め、相変わらず手強い」

司馬懿が舌打ちした。

成都に戻った徐庶は、劉禅に報告した。

「陛下、丞相は天寿を全うされました」

劉禅は涙を流した。

「丞相は私の父上以上に尽くしてくれた」

「はい。そしてその志は姜維が受け継ぎます」

「姜維に?」

「はい。姜維には資質があります」

こうして姜維は諸葛亮の後継者として認められた。


「孔明の志は君に受け継がれた」

徐庶は姜維を見つめた。

「先生のご期待に応えられているでしょうか」

姜維が不安そうに尋ねた。

「十分すぎるほどだ」

徐庶は微笑んだ。

「君の北伐は孔明も誇りに思っているだろう」

「ありがとうございます」

「じゃが」

徐庶の表情が厳しくなった。

「志を継ぐことと、同じ方法を繰り返すことは違う」

「どういうことですか?」

「それはそなた自身が見つけねばならぬ」

夜風が二人の間を通り過ぎた。
英雄たちの物語は、まだ終わっていなかった。

「さあ、最後の話をしよう」

徐庶が立ち上がった。

「私がなぜここにいるのか、その理由を」

 

終章 語り継がれる忠義

夜が更けていた。

池の向こうから微かに鶏の鳴き声が聞こえ、夜明けが近いことを告げていた。
徐庶は立ち上がり、庭の奥にある小さな祠に向かって歩いた。

「ここに来てくれ、姜維」

姜維は無言で従った。
祠の中には、劉備、関羽、張飛、そして諸葛亮の位牌が並んでいた。

「毎朝、私はここで皆に報告している」

徐庶が位牌に向かって深く頭を下げた。

「今日という日を無事に過ごせたことを」

姜維も頭を下げた。

「先生、なぜここに?なぜ洛陽に?」

徐庶は振り返った。
月光が彼の顔を照らし、深い皺に刻まれた歳月の重みが見えた。

「それを話すのが、最後の物語だ」


炎興元年(二六三年)、成都。

蜀漢滅亡の日。
鄧艾軍が成都に迫り、劉禅は降伏を決意していた。

「陛下、まだ戦えます!」

姜維が必死に訴えていた。

「もう十分だ、姜維」

劉禅は疲れ切った表情で答えた。

「これ以上、民を苦しめとうない」

徐庶は黙って立っていた。
心中は複雑だった。

(孔明よ、我らの志はここで潰えるのか)

しかし、劉禅の決断を見て、徐庶は別の感情を抱いた。

(いや、これもひとつの忠義やもしれない)

降伏の儀式が執り行われた。
姜維は涙を流していた。

「先生、私たちは負けました」

「負けたのではない」

徐庶が静かに言った。

「形を変えただけだ」

「どういうことですか?」

「そなたにはまだ分からぬやもしれぬ。じゃがいつか分かる日が来る」


降伏後、洛陽。

蜀の旧臣たちは洛陽に移住を命じられた。
徐庶も例外ではなかった。

司馬昭(司馬懿の子)は徐庶を重用しようとした。

「徐元直、貴公貴公の才能を我が朝廷で活かしていただきたい」

しかし徐庶は首を振った。

「司馬公、私はもう老いた。隠居させていただきたい」

「もったいない。貴方ほどの人材が」

「私の忠義は劉備殿のみ。二君に仕えるつもりはない」

司馬昭は徐庶の意志の固さを知り、それ以上は何も言わなかった。

「分かりました。では静かに余生を過ごすがよい」

こうして徐庶は洛陽の片隅で隠遁生活を始めた。


現在、洛陽の徐庶の家。

「そして今に至る」

徐庶が祠から戻ってきた。

「私がここにいる理由、分かったか?」

姜維は考え込んだ。

「逃げたのですか?現実から」

「そう思うか?」

徐庶の目が光った。

「いえ…違います」

姜維は首を振った。

「先生は戦い続けておられる。別の方法で」

「その通りだ」

徐庶は再び池のほとりに腰を下ろした。

「姜維よ、忠義とは何だと思う?」

「主君に命を捧げることです」

「それだけか?」

姜維は困惑した。

「では、何でしょうか?」

「忠義とは、志を継ぐことだ」

徐庶が答えた。

「主君が死んでも、国が滅んでも、その志を生き続けさせること」

「志を生き続けさせる...」

「そうだ。劉備殿の志は何だった?」

「漢室復興と、民の安寧です」

「諸葛亮の志は?」

「同じです」

「ならば」

徐庶の声に力がこもった。

「その志は蜀漢と共に滅んだのか?」

姜維の目が見開かれた。

「いえ、そのようなことは...」

「そうだ。国は滅びても、志は滅びない。それを伝え続けることこそが、真の忠義なのだ」


徐庶は立ち上がり、家の中から一冊の書物を持ってきた。

「これを見よ」

それは徐庶が書き綴った回想録だった。

「わしは毎日、少しずつ書いている。劉備殿のこと、孔明のこと、そなたのこと、そして蜀漢で起きた全てのことを」

「なぜ?」

「後世に伝えるためだ」

徐庶の目が輝いた。

「いつか、再び漢室復興を志す者が現れるかもしれない。その時、この記録が役に立つ」

姜維は感動していた。

「先生は…ひとりで戦い続けておられたのですね」

「ひとりではない」

徐庶は微笑んだ。

「そなたがおる。他にも同じ志を持つ者たちがおる」

「私も老いて...」

「歳なぞ関係ない」

徐庶が遮った。

「君の心に志がある限り、戦いは続く」


東の空が白み始めた。

「姜維よ、そなたに頼みがある」

「何でも仰ってください」

「この物語を、若い者たちに伝えてくれ」

徐庶は回想録を姜維に手渡した。

「私はもう長くない。だがそなたにならできる」

「先生...」

「名を残すことより、志を残したかった」

徐庶が遠い目をした。

「私の名前など、やがて忘れ去られるだろう。だが志は永遠に残る」

姜維は回想録を大切に胸に抱いた。

「必ずお約束いたします」

「頼んだぞ」

徐庶は安堵の表情を浮かべた。


朝陽が昇り始めた。

「さあ、朝だ」

徐庶が立ち上がった。

「新しい一日の始まりだ」

「先生、私はどうすれば...」

「そなたらしく生きればよい」

徐庶が振り返った。

「忠義の形は人それぞれ。そなたにはそなたの道がある」

「でも迷います」

「迷った時は心に問え。『これは本当に正しいことか?』『これは民のためになるか?』『これは亡き主君が望むことか?』と」

姜維は深く頷いた。

「必ず覚えておきます」


その日の夕方、姜維は洛陽を発った。
姜維には果たすべき使命があった。

徐庶は門前で見送った。

「姜維!」

振り返った姜維に、徐庶は最後の言葉を贈った。

「次に選ぶのはそなたたちだ。そして君たちの後に続く者たちだ。志を絶やすな」

「は!」

姜維の声が夕暮れの街に響いた。


数年後。

徐庶は静かに息を引き取った。
徐庶の枕元には、未完成の回想録があった。
最後には、こう記されていた。

「忠義とは、死してもなお生き続けるものである。私の肉体は朽ちても、志は永遠に生き続ける。それを信じて、私は安らかに眠りにつく」


更に数十年後。

ある若者が古い書物を手に取った。
それは姜維から受け継がれ、密かに書き写され続けてきた徐庶の回想録だった。

「徐庶...この人は一体...」

若者は夢中になって読み始めた。
劉備の仁徳、諸葛亮の知恵、そして徐庶の忠義の物語が、鮮やかに心に刻まれていく。

「素晴らしい...こんな人たちがいたのか」

若者の胸に、熱いものが宿った。

「私も、この人たちのように生きたい」


更に時は流れ…。

三国時代の記録として、正史や演義が編纂された。
しかし、その陰で徐庶の回想録も静かに受け継がれ続けた。

読む者は皆、同じ感動を覚えた。
そして心に誓った。

「私も忠義を貫こう」

「私も民のために生きよう」

「私も正義を忘れまい」

こうして徐庶の志は、名前を知られることはなくとも、確実に受け継がれていった。


現代。

ある歴史研究者が古い文献を整理していた。

「これは...三国志の新史料?」

それは徐庶の回想録の写本だった。
研究者は驚愕した。

「こんな詳細な記録があったのか。これは歴史を書き変える発見だ」

しかし、読み進めるうちに研究者は気づいた。

「この記録の真の価値は、史実の正確さではない。志の精神そのものだ」


エピローグ。

現在も、世界のどこかで徐庶の物語は語り継がれている。

ある者は親から子へと口伝で。

ある者は書物として密かに。

ある者は心の中で静かに。

形は違えど、その志は生き続けている。

「忠義とは何か」

「正義とは何か」

「人はどう生きるべきか」

徐庶が問い続けたものは、現代を生きる私たちにも向けられている。

そして今日もまた、どこかで新しい「徐庶」が生まれている。

名もなき人々の中に。

権力に屈しない人々の中に。

民のために尽くす人々の中に。

志は永遠に受け継がれる。それが徐庶の真の勝利だった。


「もうひとつの三国志」徐庶伝 忠義の彼方に
史実と演義を織り交ぜながら、一人の男の生き様を通して「真の忠義」とは何かを問いかける物語。名を残すことより、志を残すこと。
それこそが、最も美しい生き方なのかもしれない。

 

徐庶の記事

三国志の隠れた名軍師・徐庶:史実と物語が織りなす忠義と悲哀の人生
三国志の英雄たちの中で、ひときわ印象深い悲劇的な人物がいます。徐庶(じょしょ)、字は元直。劉備の最初の軍師として活躍し、あの諸葛亮を推薦した人物でありながら、母親のために主君を離れざるを得なかった男。史実と羅貫中の『三国志演義』の両面から、複雑で魅力的な人物の真の姿に迫ってみます。

龐統を題材にした創作歴史小説

私とAIが描いた「もうひとつの三国志」第二弾 天命の風、策謀の河を翔ける
乱世に生まれ、乱世に逝く。郭嘉、字は奉孝。後漢末期の動乱の中、天才軍師として歴史に名を刻んだ。その才気とは裏腹に、奔放な生き様を貫き、短い命を燃やし尽くした。「もし奉孝が生きていたら...」そう思うのは曹操だけではない。郭嘉が生き続けた世界線の物語が始まる。

三国志のおすすめ小説

小説で楽しめる三国志7選!おすすめ作品と作者をご紹介!
私がこれまで読んで面白かった三国志の小説を紹介します。吉川三国志、宮城谷三国志、北方三国志、三好徹先生の興亡三国志、柴田錬三郎先生の英雄三国志、陳舜臣先生の秘本三国志、小前亮先生の三国志の7作品を紹介。それぞれの先生に個性があり、読み比べてもとても面白いです。

 閲覧ありがとうございました。

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