三国志の隠れた名軍師・徐庶:史実と物語が織りなす忠義と悲哀の人生
三国志の英雄たちの中で、ひときわ印象深く、悲劇的な人物がいます。
徐庶(じょしょ)、字は元直。
劉備の最初の軍師として活躍し、あの諸葛亮を推薦した人物でありながら、母親のために主君を離れざるを得なかった男。
史実と羅貫中の『三国志演義』の両面から、複雑で魅力的な人物の真の姿に迫ってみます。
プロローグ 「徐庶進曹営、一言不発」の真実
「徐庶進曹営、一言不発」
この中国の歇後語(しゃくごご)をご存知でしょうか。
「徐庶が曹操の陣営に入っても一言も発しなかった」
という意味で、現在でも「心ここにあらず」という状況を表現する際に使われています。
しかし、この言葉の背景にある徐庶の人生は、私たちが想像する以上に複雑で、史実と物語の間には大きな違いがあります。
果たして徐庶は本当に曹操の下で沈黙を貫いたのでしょうか?
第一章 史実の徐庶 任侠から学者への転身
若き日の荒々しい徐庶
史実の徐庶(168年〜235年頃)は、字を元直といい、本名は徐福。
現在の河南省にあたる豫州颍川の出身で、いわゆる「寒門」(地位の低い家柄)の生まれでした。
意外に思われるかもしれませんが、後に名軍師となる徐庶の若い頃は、「やんちゃ坊主」でした。
任侠を好み、剣術に長けた徐庶は、189年頃に友人の仇を討つという事件を起こします。
逃走の際、顔に白粉を塗って変装しましたが、捕まってしまいます。
しかし、最後まで名前を明かすことなく、最終的に仲間によって救出されました。
この経験が転機となり、徐庶は学問の道へと向かうことになります。
諸葛亮との出会い
191年頃、徐庶は同郡の石韬と共に荆州へ避難し、そこで生涯の友となる諸葛亮と出会います。
諸葛亮は徐庶について、
「人心苦不能尽,惟徐元直处兹不惑(人の心を完全に理解することは難しいが、徐元直だけはこの点で迷いがない)」
と絶賛しています。
劉備への仕官とその後
201年頃、徐庶は劉備に仕えることになります。
しかし、208年に曹操が南下してきた際、母親が曹操軍に捕らえられてしまいます。
これをきっかけに徐庶は劉備の元を離れ、曹操に仕えることになりました。
ここからが史実と演義の大きな分かれ道です。
史実では、徐庶は曹操の下で順調に出世を重ね、步兵校尉、関内侯を経て、223年には右中郎将、御史中丞という高位に任命されています。
これは明らかに曹操とその後継者たちが徐庶の才能を認め、重用していたことを示しています。
第二章 演義の徐庶 忠義と孝行の間で苦悩する悲劇の軍師
「単福」から「徐庶」へ 名前に隠された誤解
『三国志演義』では、徐庶は最初「単福」という偽名を使っていたとされています。
これは実は史実の記述の誤解から生まれた設定です。
史書に記された「単家子(寒門の子)」を、羅貫中が「単」という姓と勘違いしたものです。
このような小さな誤解が、物語の中で重要な意味を持つ設定へと発展していく様子は、歴史と文学の興味深い関係を示しています。
水鏡先生の推薦で劉備の軍師に
演義では、徐庶は司馬徽(水鏡先生)の推薦で劉備に仕えることになります。
街をぶらぶらしながら
「山谷に賢ありて明主に投ぜんと欲す 明主は賢を求むれども却って吾を知らず」
と歌い、それが劉備の耳に入ったというエピソードは、まさに物語らしい出会いです。
軍師となった徐庶は、曹仁の「八門金鎖陣」を破るなど目覚ましい活躍を見せ、劉備から厚い信頼を得ます。
しかし、この幸せな時期は長くは続きませんでした。
程昱の策略 偽造された母親の手紙
演義において最も劇的なのが、曹操の謀士・程昱による策略です。
程昱は徐庶の母親の筆跡を巧妙に偽造し、「あなたが来てくれないと殺される」という内容の偽手紙を徐庶に送ります。
徐庶はこの手紙を信じ、母親を救うために劉備に別れを告げます。
「私は将軍と共に王霸の業を成そうと思っていましたが、それは私の心があってこそでした。しかし今、母が曹操に捕らえられ、私の心は乱れてしまいました。もはや将軍のお役に立てません」
この言葉には、忠義と孝行の間で引き裂かれる徐庶の苦悩が込められています。
母親の自害 悲劇の頂点
曹操の陣営に到着した徐庶を待っていたのは、想像を絶する悲劇でした。
母親は息子が主君を捨てて、自分のもとにやって来たことを知ると、激怒してこう言い放ちます。
「忠義を捨てて親孝行を選ぶとは何事か!」
そして自害してしまうのです。
この母親は、息子の命よりも主君への忠誠を重んじる、まさに儒教的理想を体現した女性として描かれています。
「徐庶進曹営、一言不発」の成立
母親を失った徐庶は、曹操の下にいながらも一言も発せず、一計も献じることはありませんでした。
劉備への変わらぬ忠誠心を貫いたのです。
赤壁の戦いでは、龐統の「連環計」を見抜きながらも曹操に告げることなく、自ら長安への赴任を願い出て戦場を離れました。
第三章 諸葛亮への橋渡し 歴史を変えた推薦
「臥龍」の発見
徐庶が三国志史上で果たした最も重要な役割の一つが、諸葛亮の推薦です。
演義では、劉備の元を離れる際に徐庶がこう言います。
「将軍がもし賢才を求めるならば、諸葛孔明という人物がおります。『臥龍』と呼ばれ、将軍が親しく迎えれば、必ずや天下を得ることができるでしょう」
この推薦がなければ、有名な「三顧の礼」も生まれず、劉備と諸葛亮の出会いもなかったかもしれません。
徐庶は自らの不幸と引き換えに、歴史の流れを決定づける推薦を行ったのです。
史実でも続いた友情
興味深いことに、史実でも徐庶と諸葛亮の友情は続いていました。
228年、諸葛亮が北伐を開始した際、徐庶と石韬の官位が低いことを知った諸葛亮は次のように感嘆しています。
「魏殊多士邪!何彼二人不见用乎(魏には多くの人材がいるのに、なぜこの二人を重用しないのか)?」
これは徐庶への変わらぬ敬意を示すと同時に、魏における人材登用への疑問を投げかけた言葉でもありました。
第四章 史実と物語 二つの徐庶像
史実の徐庶 現実的な選択と成功
史実の徐庶は、母親のために主君を変えた後、新しい環境で着実に成果を上げ、高位にまで上り詰めました。
これは現実的な判断と適応能力の高さを示しています。
徐庶の人生は確かに転機を迎えましたが、それは必ずしも悲劇ではありませんでした。
むしろ困難な状況の中でも能力を発揮し続けた、したたかで優秀な人物像が浮かび上がります。
演義の徐庶 理想化された忠臣の姿
演義の徐庶は儒教的理想を体現した人物として描かれています。
忠義と孝行の間で苦悩し、最終的に両方を失いながらも、信念を貫き通した悲劇の忠臣です。
この描写は史実とは大きく異なりますが、「忠義」という価値観を重視した時代の人々の心に深く響き、現代まで語り継がれる物語となりました。
第五章 徐庶が現代に残した教訓
選択の重さと責任
徐庶の人生は、人生の重要な選択とその責任について考えさせてくれます。
史実でも演義でも、徐庶は母親のために劉備を離れる選択をしました。
この選択の是非を単純に議論することはできませんが、徐庶がその後の人生でその選択に責任を持って生きたことは確かです。
人材の発掘と推薦の重要性
徐庶による諸葛亮の推薦は、適切な人材を見極め、機会を提供することの重要性を示しています。
組織においても、個人の成長においても、良い指導者や仲間との出会いが如何に重要かを物語っています。
忠義と現実のバランス
演義の徐庶は理想的な忠臣として描かれていますが、史実の徐庶は現実的な選択をして成功を収めました。
どちらも人生の一つのあり方であり、状況に応じて最善の選択をすることの大切さを教えてくれます。
エピローグ:徐庶の魅力とは
徐庶の魅力は、その複雑さにあります。
史実では現実的で適応能力の高い知識人、演義では理想に殉じた悲劇の忠臣。
どちらも人間的な魅力に満ちており、それぞれ異なる価値観や生き方を提示しています。
徐庶が諸葛亮という偉大な人材を見出し、推薦したことで歴史に大きな影響を与えたという事実は、どんな人でも歴史を変える可能性を持っているということを示しています。
三国志の英雄たちの陰に隠れがちな徐庶ですが、その人生は私たちに多くのことを教えてくれます。
忠義と孝行、理想と現実、選択と責任。
これらのテーマは現代を生きる私たちにとっても決して無関係ではありません。
「徐庶進曹営、一言不発」という言葉が現代まで使われ続けているのは、徐庶の生き方が時代を超えて人々の心に響くものがあるからでしょう。
史実と物語、両方の徐庶から学ぶべきことは、きっと現代の私たちの人生にも活かせるはずです。
三国志の魅力は、このような複雑で人間味溢れる人物たちにあります。
有名な英雄だけでなく、徐庶のような「隠れた名脇役」たちの人生にも、私たちが学ぶべき深い教訓が込められているのです。
徐庶を題材にした創作小説 「もうひとつの三国志」

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