黒い宰相のいた桶狭間 回帰する歴史
永禄三年(一五六〇)五月十九日。
この日は日本史上最も劇的な「番狂わせ」が起こった日として記録されている。
弱小大名織田信長が、東海道の雄・今川義元を討ち取った桶狭間の戦い。
わずか三千の兵で二万五千の大軍を破った「奇跡の勝利」として語り継がれるこの合戦が、戦国時代の潮流を決定づけたのは間違いない。
しかし—
駿府を発った二万五千の大軍は、五月雨をはらんだ雲を突き破るかのように西へ歩を進めていた。
白地に二つ丸の旗が風を裂き、三河路の田植えを急かす蛙の声さえ呑み込んでいく。
輿の簾を押し上げ、今川義元がひとつ笑みを漏らした。
「京へ入る日は近い。天下は我らの手の中よ。」
義元の脇に、漆黒の法衣に身を包んだ老僧、―黒い宰相こと太原雪斎―。
透きとおるほど静かな目が、尾張の空の奥を計るように細められる。
「驕りは毒でございます、御館様。しかし毒もまた、時に刀となりましょう。」
雪斎の声は深く低く、谷底を這う霧のように軍議衆の背筋を撫でた。
義元は扇で口許を隠しつつ笑う。
「して、その刀は...、尾張でうつけ殿に振るうか?」
「いずれは。されど尾張は序章に過ぎませぬ。真の敵は『時』そのもの。」
雪斎はそう言い切り、馬首を西へ向ける。
太原雪斎という一人の天才軍師が変えた歴史の分水嶺。
そこから生まれた新しい戦国絵巻を、今ここに紐解いてみたい。
果たして雪斎は、戦国の世にどのような変革をもたらすのか。
織田信長という「風雲児」は、この逆境をいかにして乗り越えるのか。
そして今川義元は、真に天下人たる器を示すことができるのか。
運命の歯車が、静かに回り始める。
著者記
本作は史実とは異なる展開を描いたフィクションです。
太原雪斎の実際の没年は弘治元年(一五五五)とされており、桶狭間の戦い時には既に故人でした。
しかし、もしも雪斎が生きていたら、という仮定のもとに物語を構築しています。
歴史への敬意を保ちつつも、想像力の翼を広げて戦国時代の新たな可能性を探求しています。
序章 桜花の桶狭間
永禄三年(一五六〇)五月十九日未明。
尾張国桶狭間の山間に、夜霧が深く立ち込めていた。
「殿、間者の報告によれば、織田勢は鳴海城と大高城の援軍に向かったとのこと。本陣は手薄になっております」
今川義元の陣幕の奥で、僧衣に身を包んだ初老の男が静かに頷いた。
太原雪斎。
今川家随一の軍師にして、幼き日の義元を薫陶した師でもある。
「やはりか。織田信長は、敵の裏を突こうとしております。その性急さが仇となりましょう」
雪斎の声は低く、しかし確信に満ちていた。
手には、昨夜から今朝にかけて集められた情報が整然と記された書があった。
織田勢の動き、地形の特性、そして信長の心理。
「殿、お聞きください」
雪斎は義元に向き直った。
「信長は必ずや奇襲を仕掛けてまいります。おそらくは正午過ぎ、嵐が過ぎた隙を狙って」
「奇襲とな?」
義元の眉が上がった。
「我が軍は二万五千。対する織田勢は三千に満たぬと聞くが」
「まさにその油断こそが、信長の狙いなのです」
雪斎は立ち上がり、陣幕の入り口から外を見遣った。
東の空が白み始めている。
やがて太陽が昇り、午後になれば雨雲が湧くだろう。
天候も、地形も、すべてが信長に味方しているかのように見える。
だが——。
「殿、桶狭間の地形をご覧ください」
雪斎は地図を広げた。
「この狭間は確かに奇襲には適している。しかし同時に、退路を断つにも絶好の地なのです」
義元の目が鋭くなった。
「退路を断つ、とは?」
「信長が奇襲を仕掛けてくる時刻と場所を読み、我らが逆に包囲するのです。朝比奈隊を西に、岡部隊を東に回らせ、本陣は南に後退する。信長が本陣を襲ったその時、三方から挟撃するのです」
雪斎の指が地図上を滑った。
桶狭間の地形が、信長にとっての罠となって浮かび上がる。
「雪斎よ」
義元の声に感嘆が混じった。
「そなたの策、的中するであろうか」
「策ではございません、殿。これは必然なのです」
雪斎の目に、深い光が宿った。
「織田信長という男は、天運を味方につける稀代の戦上手。しかし同時に、己の才覚を過信する男でもあります。今日の桶狭間で、その両面を見ることになりましょう」
日が高くなるにつれ、今川本陣では雪斎の指示通りに部隊が動き始めた。
朝比奈泰朝は三千の兵を率いて西へ、岡部元信は二千五百を率いて東へ。
表向きは警戒のための展開だが、実際は包囲網の準備であった。
「殿、お時間です」
正午を過ぎた頃、雪斎が義元に声をかけた。
予想通り空には雲が立ち込め、やがて雨が降り始めるだろう。
「本陣を田楽狭間へ移します。兵には休息を装わせてください」
「休息を?」
「はい。信長に隙ありと思わせるのです。実際には、各隊は戦闘準備を整えたまま待機いたします」
義元は深く頷いた。
「すべて雪斎に任せる」
午後一時過ぎ。
激しい雨が桶狭間一帯を叩いていた。
今川本陣では、兵たちが雨宿りをするふりをしながら、武器を手の届く場所に置いていた。
雪斎は陣幕の端で、じっと東の方角を見つめていた。
やがて...、雨が上がった。
「来る」
雪斎の唇が動いた。
そして、その読み通りに。
「敵襲! 織田勢、南東より突撃してまいります!」
斥候の声が響く。
雪斎の顔に、薄い笑みが浮かんだ。
「殿、お立ちください。織田信長との真の勝負が始まります」
義元が立ち上がる。
その時、今川本陣に向かって雨上がりの土煙を上げながら、織田勢が突進してきた。
先頭に立つのは、異形の格好をした若武者。
織田信長その人であった。
「狙うは義元の首のみー!」
信長の雄叫びが桶狭間に響く。
その背後に続く織田勢は確かに少数だが、全員が決死の覚悟を固めていた。
しかし...
「朝比奈隊、西より攻撃開始!」
「岡部隊、東より突撃!」
雪斎の号令と共に、織田勢の左右から今川の精鋭が現れた。
信長の顔が一瞬、驚愕に歪んだ。
「謀られたか——!」
だが信長は、そこで怯むような男ではなかった。
「構わぬ! 義元の首さえ取ればよい!」
信長は太刀を振りかざし、今川本陣へと突進を続ける。
その瞬間、織田勢が次々と今川の包囲攻撃に倒れていった。
「うつけ!」
雪斎が大声で呼びかけた。
「そなたの勇猛、見事である! だが天は、今日のそなたを選ばなんだ!」
信長が振り返る。
そこには、悠然と立つ雪斎の姿があった。
「雪斎——!」
「左様。この桶狭間での戦、すべて我が読み通りであった。そなたの敗北は、策に敗れたのではない。運命に敗れたのだ」
その時、朝比奈隊の槍がついに織田勢の最後の防衛線を破った。
「殿、御退却を!」
家臣の叫び声と共に、信長は歯噛みしながら馬を返した。
「ここまでだ!」
信長の退却と共に、桶狭間の戦いは今川の圧勝で終わった。
戦場に静寂が戻った夕刻。
雪斎は一人、桶狭間の丘に立っていた。
夕日が西の空を染める中、表情は複雑だった。
「雪斎様」
背後から義元の声がした。
「見事な勝利であった。これで東海道は完全に我らのもの。上洛への道筋も見えた」
「はい、殿」
雪斎は振り返らずに答えた。
「しかし——」
「何じゃ?」
「織田信長という男、敗れはしましたが、その眼光に一片の衰えも見えませなんだ。むしろ、この敗北が信長をさらに強くするやもしれません」
義元は首をかしげた。
「敗軍の将に何を恐れることがあろうか」
雪斎はようやく振り返った。
その顔には、勝利の喜びではなく、深い憂いが刻まれていた。
「殿、戦とは不思議なものです。時として、敗北こそが真の勝利への道となることがあるということ。今日の信長の眼には、そのような光が宿っておりました」
「雪斎よ、そなたらしくもない」
義元が笑った。
「勝ったのは我らではないか」
「ええ、確かに今日は我らの勝利です」
雪斎は再び西の空を見上げた。
そこには、まるで燃え盛る炎のような夕焼けが広がっていた。
「だが、戦国の世はまだ続きましょう。真の勝負は、これからなのかもしれませぬ」
桶狭間に夜が降りる。
今川義元は上洛への野望を胸に秘め、太原雪斎は後に来るべき嵐を予感していた。
そして遠く尾張の国では、織田信長が歯を食いしばりながら、復讐の機会を窺っていた。
桶狭間の戦いは終わったが、真の戦国絵巻は、今まさに始まろうとしていた。
第一幕 美濃の落ち武者
永禄三年(一五六〇)六月上旬。
美濃国の山深い古刹、龍安寺の境内に、みすぼらしい浪人風の男が一人座り込んでいた。
織田信長。
桶狭間で敗北し、清州城が落ちて三週間、尾張を離れ、美濃の山中を彷徨っていた。
「御館様——」
背後から声をかけられ、信長は振り返った。
木下藤吉郎、後の羽柴秀吉である。
主君と共に落ち武者となっていた。
「藤吉郎か。まだついてきておったのか」
「当然でございます。御館様がお諦めにならぬ限り、猿もお供いたします」
秀吉の屈託のない笑顔に、信長の表情が僅かに和らいだ。
桶狭間以来、信長の周りから多くの家臣が去って行った。
だがこの猿面の男だけは、どんな時も信長を見捨てなかった。
「しかし、どうしたものか」
信長は空を見上げた。
「今川は雪斎の策で完全に東海道を押さえた。尾張に戻ろうにも、道がすべて封じられている」
「ならば、新しい道を作ればよろしいのです」
突然、境内の奥から声が響いた。
信長と秀吉が振り返ると、そこには痩身の若い武士が立っていた。
年の頃は二十代前半、色白で病弱そうだが、その目には鋭い知性の光が宿っている。
「何者だ」
「竹中半兵衛重治重治」
男は軽く頭を下げた。
「斎藤龍興にお仕えしておりましたが、今は浪人の身」
信長の目が光った。
竹中半兵衛。
美濃一の知謀の士として名高い男である。
「ほう、その竹中半兵衛が何故ここに?」
「主君龍興に諫言を行ったところ、お気に召さず」
半兵衛は苦笑いを浮かべた。
「稲葉山城を出て、こちらで世を儚んでおりました」
秀吉が前に出た。
「して、新しい道を作るとは?」
半兵衛の目が輝いた。
「信長様は桶狭間で敗れたとはいえ、その戦いぶりは美濃にまで響いております。今川の大軍に僅か三千で挑んだ勇猛さ、そして敗北してなお屈服せぬ不屈の精神」
「褒めても何も出ぬぞ」
信長が苦々しく言った。
「いえ、褒めているのではありません」
半兵衛は首を振った。
「機会を申し上げているのです」
「機会?」
「美濃を獲るのです」
信長と秀吉が息を呑んだ。
「美濃は斎藤家三代の居城。そう簡単には...」
「簡単ではありません」
半兵衛が遮った。
「龍興様は愚君、重臣たちは保身に走り、民は疲弊している。今こそ、真の主君を求めているのです」
半兵衛は信長をじっと見つめた。
「信長様が美濃を獲れば、京へと向かう道が開けます」
永禄四年(一五六一)八月十五日夜。
稲葉山城の天守は、夏祭りの灯りで煌々と照らされていた。
城内では斎藤龍興が酒宴を催し、重臣たちが太鼓持ちに興じている。
その頃、城の搦手では影のような人影が動いていた。
「合図はまだか」
秀吉が息を殺して呟いた。
背後には、蜂須賀党の精鋭五十人が控えている。
「もう少しです」
半兵衛が答えた。
半兵衛は、稲葉山城に戻っていた。
表向きは龍興への詫びと復帰の申し出。
「半兵衛、本当に大丈夫なのか?」
信長が呟いた。
半兵衛の作戦は余りにも大胆すぎた。
稲葉山城は美濃一の堅城、しかもその城を内部から攻略するなど...。
「信長様」
半兵衛が振り返った。
「策とは時として、常識を越えたところにこそ生まれるもの。龍興は私を疑ってはおりません。むしろ、戻ってきたことを喜んでおられる」
その時、城内から太鼓の音が響いた。
「今です」
半兵衛の合図で、秀吉隊が動き出した。
事前に半兵衛が用意した秘密の通路を使い、精鋭たちが城内へと侵入していく。
一方、城の正面では...。
「かかれー!」
信長の雄叫びと共に、織田の主力が正面攻撃を開始した。
だがこれは陽動。真の狙いは——。
「火の手が上がりました!」
秀吉の声が夜空に響く。
城内の要所要所で、一斉に火が上がった。
これも半兵衛が仕組んだ策略である。
「何事か!」
酒宴の最中だった龍興が慌てふためく。
しかし既に遅い。
半兵衛は密かに城内の警備を解き、重要拠点の兵を祭りに参加させていたのだ。
「殿、敵は織田勢! 城内に侵入しております!」
家臣の報告に、龍興の顔が青ざめた。
「織田信長が? 馬鹿な、奴は桶狭間で討たれたではないか!」
「龍興様」
その時、半兵衛が現れた。
「半兵衛! 良いところに! 奴を——」
「御免!」
半兵衛は軽く頭を下げた。
「この稲葉山城、織田信長様にお渡しいたします」
龍興の顔が絶望に歪んだ。
夜明けと共に、稲葉山城に織田の旗が翻った。
信長は天守の最上階に立ち、美濃の国を見渡していた。
木曽川が銀色に光り、遠く尾張の方角まで見渡せる。
「お見事でした、信長様」
背後から半兵衛の声がした。
「いや、すべてはそなたの策あってのこと」
信長は振り返った。
「しかし何故だ? 何故、美濃を捨ててまで我に味方した?」
半兵衛は少し考えてから答えた。
「桶狭間での信長様の戦いぶりを見て、確信したのです。この方こそ、真に天下を統べるお方だと」
「天下を統べる、か」
信長は再び窓の外を見た。
「雪斎め、桶狭間で我を謀ったが、美濃という新たな拠点を得た今、勝負はこれからよ」
秀吉が駆け上がってきた。
「殿! 城下の民が皆、歓声を上げております! 龍興の悪政に苦しんでいた者たちが、殿の治世に期待を寄せているとのことです!」
信長の顔に笑みが浮かんだ。
「よし。ならばこの城の名を改めよう」
「名を?」
「岐阜じゃ」
信長は力強く言った。
「岐山より鳳凰が飛び立つが如く、この地より天下統一の第一歩を踏み出すのだ」
半兵衛が感嘆の息を漏らした。
「岐阜城ー 見事な命名にございます」
「半兵衛」
信長が振り返った。
「そなたには我が軍師として、共に天下を目指してもらいたい」
「ありがたき幸せ!」
半兵衛は深く頭を下げた。
「この命、信長様にお預けいたします」
同じ頃、清州城では太原雪斎が今川義元に報告していた。
「美濃が、織田信長の手に?」
義元の驚きの声が響く。
「はい」
雪斎の表情は険しかった。
「竹中半兵衛という智将を味方につけ、稲葉山城を一夜で攻略したとのこと」
「桶狭間で敗れた男がか?」
「それゆえに油断なりません」
雪斎は立ち上がった。
「織田信長という男、敗北から学び、強くなって戻ってきました。今度は我らが警戒せねばなりません」
義元の顔に困惑が浮かんだ。
「だが、美濃一国を得たとて、我が今川とは国力が違う」
「いえ、殿」
雪斎は首を振った。
「美濃は東海道を迂回する要衝。信長はこれで、我らの包囲網を破る術を得たのです」
雪斎は地図を広げた。
「美濃から近江、そして京へ。信長は新たな天下取りの道筋を手に入れました。我らとは別の、独自の道を」
「では、どうする?」
「まずは北畠との同盟を固め、伊勢を押さえます。そして...」
雪斎の指が地図上を移動した。
「浅井長政との婚姻を進めましょう。近江を今川の影響下に置けば、信長の京への道を阻むことができます」
義元が頷いた。
「分かった。すべて雪斎に任せる」
だが雪斎の心には、一抹の不安があった。
織田信長という男の底知れぬ力を、桶狭間で垣間見ていたからである。
岐阜城の夜。
信長は一人、書状をしたためていた。
宛先は、松平元康。
「元康よ、時は来た」
信長は筆を走らせる。
「今川の軛から逃れ、共に新しい世を切り開こうではないか。美濃を得た今、我らには勝機がある」
桶狭間での敗北から一年。
信長は見事に復活を遂げていた。
そして今度は、雪斎をも上回る壮大な策略を巡らせようとしていた。
美濃の山城に、新たな時代の風が吹き始めていた。
第二幕 尾張奪還・三面戦
永禄五年(一五六二)春。
岐阜城の奥座敷で、三人の男が密談を交わしていた。
織田信長、松平元康、そして浅井長政である。
「して、信長殿の提案とは?」
長政が口火を切った。
彼はまだ二十歳の若さだが、近江の戦国大名とし名を挙げている。
「簡単なことよ」
信長が地図を広げた。
「今川を三方から攻めるのだ。我が岐阜より尾張へ、家康が三河より遠江へ、長政殿が近江より伊勢へ」
元康が眉をひそめた。
「しかし今川には太原雪斎がおります。あの男の策謀は...」
「だからこそ、一気に決着をつけねばならぬ」
信長が遮った。
「雪斎に策を練る時間を与えてはならん」
長政が地図を見つめた。
「確かに三方からの同時攻撃ならば、雪斎といえども対応は困難でしょうが...」
「長政殿」
信長の目が光った。
「そなたに今川と戦うわけでもあるのか?」
長政の顔が曇った。
「今川から縁組の申し入れがあったのです。義元の姪を我が正室にと」
「ほう」
「しかし、それは今川の傀儡になることを意味します。近江を保つためには...」
「ならば決まりじゃ」
信長が手を打った。
「我らにとって共通の敵ということじゃ。」
家康が慎重に口を開いた。
「しかし、時期が問題では?今川は北畠との同盟も固めつつある。伊勢が敵に回れば...」
「それこそが好機です」
突然、半兵衛の声が響いた。
病弱な軍師が静かに座敷に入ってくる。
「半兵衛、どういうことだ?」
「今川が勢力を伸ばし過ぎているということは、戦力が分散しているということです」
半兵衛は咳き込みながら言った。
「雪斎とて、すべての戦線を同時に指揮することはできません」
長政が感心したように頷いた。
「なるほど、一点集中ではなく分散させて混乱を招くと」
「その通りです」
半兵衛が地図に指を置いた。
「ただし、この作戦には一つ条件があります」
「条件とは?」
「速さです。雪斎が対応策を講じる前に、一気に決着をつけねばなりません。長くとも三ヶ月以内に」
信長が立ち上がった。
「よし、決めた。今年の夏、三方同時に今川を攻める。家康殿、長政殿、よろしいか?」
家康と長政が顔を見合わせ、そして力強く頷いた。
永禄五年六月初旬。清州城。
太原雪斎は書状の山に埋もれていた。
近江、三河、美濃からの報告が次々と届く。
どれも不穏な動きを示すものばかりだった。
「雪斎様」
弟子の一人が部屋に入ってきた。
「浅井長政が今川との縁組を断ってきました。また、松平元康にも不穏な動きが...」
雪斎は顔を上げた。
その顔は以前より明らかにやつれていた。
「やはりか。うつけ者め」
「いかがいたしましょう?」
雪斎は立ち上がろうとして、よろめいた。
最近、体調の悪化が著しい。
「まずは北畠との同盟を急ぐ。伊勢を固めねば近江からの攻撃に対応できん」
「はい」
「それと、六角義賢にも使者を送れ。近江の南から浅井を牽制してもらう」
弟子が退出した後、雪斎は一人呟いた。
「信長よ、そなたも学んだというか。」
だが雪斎の胸には、言いようのない不安があった。
体調もさることながら、織田信長という男の成長の速さに、底知れぬ恐怖を感じていたのだ。
永禄五年七月十五日。
三方からの攻撃が開始された。
美濃では信長自らが軍を率い、木曽川を渡って尾張に侵攻。
尾張奪還の旗印の下、織田勢の士気は天を突いていた。
「殿、清洲城が見えてまいりました!」
秀吉の声に、信長の目が輝いた。
桶狭間の敗北以来、今川の手に落ちていた居城である。
「よし、一気に攻め落とすぞ!」
一方、三河では元康が遠江への侵攻を開始。
今川の重臣・朝比奈泰朝の軍と激突していた。
「殿、敵は手強うございます!」
家臣の報告に、元康は冷静に頷いた。
「構わん。我らの目的は遠江の制圧ではない。今川の注意を引きつけることじゃ」
そして近江では、長政が伊勢口への進軍を開始していた。
北畠軍との激しい戦いが繰り広げられていた。
「長政様、六角勢が後方より迫っております!」
「案の定か」
長政は苦笑いした。
「だが、信長殿の読み通りだ。今川は既に手一杯のはず」
清州城では、雪斎が必死に対応策を練っていた。
「三河には朝比奈を、信長には岡部を、伊勢には...」
そこで雪斎の言葉が途切れた。
激しく咳き込み始めた。
「雪斎様!」
弟子たちが駆け寄る。
雪斎の口から血が滲んでいた。
「だ、大丈夫じゃ」
雪斎は手で制した。
「戦の最中に倒れるわけには...」
だが、その時だった。
「御報告! 織田勢、清洲城に向けて侵攻中! 尾張の過半を制圧しております!」
「何じゃと!」
雪斎が立ち上がろうとして、再びよろめいた。
「松平勢も遠江に侵攻しております!」
「浅井勢は関ヶ原を突破、伊勢口へと迫っております!」
次々と届く悪報に、雪斎の顔が青ざめた。
「速い...、あまりにも速すぎる」
雪斎は頭を抱えた。
織田信長の作戦の見事さに、戦慄を覚えていた。
「策を練る間もない。これが信長の狙いか!」
永禄五年八月末。
三方からの攻撃は、ついに今川領の中核部にまで達していた。
清州城を前にして、信長が戦況を確認していた。
「半兵衛、見事な読みであった。雪斎といえども、三方同時攻撃には対応しきれておらぬ」
「しかし油断は禁物です!」
半兵衛が咳き込みながら答えた。
「雪斎という男、最後の最後で何をしてくるか...」
その時、急使が駆け込んできた。
「御報告! 清州城より重大な知らせが!」
「何事だ?」
「太原雪斎が病に倒れ、重篤との報告です!」
信長と半兵衛が顔を見合わせた。
「雪斎が...」
清州城の奥座敷で、雪斎は床に伏していた。
今川義元が心配そうに見守っている。
「雪斎よ、大丈夫か?」
「申し訳ございません、殿」
雪斎の声は弱々しかった。
「この期に及んで...」
「何を言う。そなたあっての今川ではないか」
雪斎は微かに首を振った。
「いえ、殿。もはや私の時代は終わりました」
「何を申す」
「織田信長という男」
雪斎の目に、最後の輝きが宿った。
「あの男は、私の想像を遥かに越えました。ただのうつけ者ではなかった...」
雪斎の手が義元の袖を掴んだ。
「殿、お聞きください。これより先、織田信長との戦いは、策略戦ではありません。それは純粋な戦...」
「雪斎...」
「私亡き後も、どうか...」
雪斎の声が途切れた。
今川家最大の知恵袋が、ついに息を引き取ったのである。
義元の慟哭が、清州城に響いた。
その報せは、瞬く間に各地の戦場に伝わった。
信長が複雑な表情で報告を聞いていた。
「雪斎が死んだと?」
「はい。昨夜、清州城にて病死されたとのことです」
信長は長い間、沈黙していた。
やがて、深いため息をついた。
「惜しい男を失った」
「殿?」
秀吉が驚いた顔をした。
「雪斎は確かに我が敵であった。しかし、あのような智将と戦えたことは、我が誇りでもあった」
信長は立ち上がった。
「だが、これで勝負は決まった。今川は頭脳を失った。後は...」
「後は?」
「義元一人では、この戦局を覆すことはできぬ」
信長の予言通り、雪斎を失った今川軍は急速に統制を失い始めた。
各地の戦線で今川勢の敗報が相次ぎ、織田・徳川・浅井の三者同盟が優勢に転じていく。
永禄五年九月。
ついに今川義元自らが出陣することになった。
雪斎亡き後、混乱する軍を立て直すためである。
「義元様、ご出陣は危険すぎます」
重臣たちが必死に止めたが、義元の意志は固かった。
「雪斎を失った今、この義元が前に出ねば、誰が軍を纏めるというのだ」
だが、雪斎の後ろ盾を失った義元には、もはや以前の威厳はなかった。
出陣した義元軍は、各地で織田・徳川・浅井連合軍に敗れ続ける。
決定的だったのは、五条川での戦いであった。
信長軍に追い詰められた今川軍は、ついに義元自身が討死の危機に陥った。
「殿、御退却を!」
重臣たちに守られ、義元は辛うじて清州城へと逃れたが、今川の威信は地に落ちた。
永禄五年十月。
織田陣中で、信長は戦況報告を聞いていた。
「今川軍は撃破。三河も松平殿が完全に制圧。近江では浅井殿が伊勢口を確保」
「うむ」
信長は満足そうに頷いた。
「三方作戦、見事に成功したな」
「しかし」
半兵衛が咳き込みながら言った。
「今川はまだ清州城を保持しています。完全な勝利とは——」
「いや、半兵衛」
信長が遮った。
「雪斎を失った今川に、もはや我らを脅かす力はない。次の敵は...」
信長の目が京の方角を向いた。
「三好と本願寺だ。今川が落ちた今、天下の行方を左右するのは奴らであろう」
半兵衛が感心したように頷いた。
「さすがは信長様。既に次の戦いを見据えておられる」
「当然よ」
信長が立ち上がった。
「雪斎との戦いは無駄ではなかった。敵が態勢を整える前に、次の一手を打つ」
信長の目に、新たな野望の炎が燃えていた。
今川との戦いは終わりを迎えつつあった。
次は京である。
太原雪斎という巨星の死と共に、戦国の勢力図は大きく塗り替わろうとしていた。
第三幕 京洛真空
永禄六年(一五六三)初春。
京都御所の奥深くで、足利義輝は一人書を読んでいた。
将軍とは名ばかり、実権は三好三人衆に握られている。
それでも義輝は、将軍としての責務を果たそうと懸命だった。
「義輝様」
近習の一人が部屋に入ってきた。
「三好長逸様がお見えです。緊急の御相談があるとのこと」
義輝は書を閉じた。
三好三人衆の筆頭、三好長逸である。
碌な話ではあるまい。
「通せ」
程なくして長逸が現れた。
その顔には、いつもの尊大さに加えて、何か焦燥の色が見える。
「将軍様、大変な事態にございます」
「何事だ?」
「織田信長が動きました。尾張の大半を奪還した信長が、今度は美濃から近江へと勢力を拡大しております」
義輝の眉が動いた。
「織田信長...、あの桶狭間で敗れたうつけが?」
「はい。太原雪斎の死後、今川は急速に力を失い、その隙を突いた信長が一気に勢力を回復したのです」
長逸の声に、明らかな警戒心があった。
「さらに問題なのは、信長が上洛の意図を示していることです」
「上洛?」
義輝の心臓が跳ねた。
もし信長が京に来れば——
「我らとしては、信長の上洛を阻止せねばなりません。将軍様にも、それ相応の御協力を」
長逸の言葉は丁寧だったが、その眼光には脅迫の色があった。
義輝は静かに答えた。
「分かった。しかし、織田信長とはいかなる男か、直接会うてみたい気もするが」
長逸の顔が強張った。
「それは危険すぎます」
「なぜだ?」
「信長は...」
長逸が言葉を選んだ。
「将軍を必要としない男かもしれません」
同じ頃、清州城では今川義元が深い絶望に沈んでいた。
雪斎を失ってから半年、今川家の凋落は目を覆うばかりだった。
「殿、織田・徳川連合軍が清州に迫っております」
重臣の報告に、義元は力なく頷いた。
「ついに、ここまで来たか」
「殿、ここは駿河に一旦退却を。甲斐の武田殿を頼り...」
「いや」
義元が首を振った。
「それでは今川の名が廃る」
義元は立ち上がった。
その姿は、かつての威厳を失い、やつれ果てていた。
「雪斎よ。そなたがいれば、この窮地も乗り越えられたであろうに」
義元の脳裏に、雪斎の最後の言葉が蘇った。
『これより先、信長との戦いは、策略戦ではありません。純粋な戦となりましょう』
「純粋な戦...か」
義元は決意を固めた。
「出陣する。最後の戦いだ」
永禄六年三月。
清州城で、今川義元の戦いが始まった。
織田信長自らが率いる軍勢と、追い詰められた今川軍の激突である。
「義元を討ち取れば、清州城は我がものぞ!」
信長の檄に、織田勢の士気は最高潮に達していた。
一方、今川軍は絶望的な劣勢だった。
「殿、まだ退却の時間はございます!」
重臣たちが必死に諫めたが、義元は首を振った。
「ここで逃れては、今川の名が廃る。ならば...」
義元は刀を抜いた。
「織田信長と雌雄を決するのじゃ」
戦いは凄惨を極めた。
今川軍は必死に抵抗したが、織田軍の勢いは止まらない。
清州城に流れ込んだ織田軍の前に義元自身が出る場面となった。
「今川義元、ここにあり! 織田信長、出合え!」
義元の叫びが城内に響いた。
それを聞いた信長が、押し寄せる今川兵を蹴散らして前に出る。
「義元! ついに雌雄を決する時が来たな!」
両雄の一騎討ちが始まった。
だが、すでに疲労困憊の義元に、全盛期の信長と渡り合う力は残っていなかった。
数合の後、義元の刀が弾き飛ばされた。
「これまでか...」
義元が観念した時、信長の刀が振り下ろされた。
「義元覚悟...」
信長の声には、勝者の驕りではなく、敬意があった。
「見事な最期」
今川義元の死と共に、戦国の覇者が完全に交代した。
京都では、義元討死の報せが三好三人衆を震撼させていた。
「今川義元が討たれただと?」
「はい。織田信長自らの手によって」
長逸の顔が青ざめた。
今川を破った今、織田信長の上洛を阻む障壁はない。
「すぐに諸国の大名に檄を飛ばせ。織田信長の上洛を阻止するのじゃ!」
「はい」
だが、長逸の心中には、不安が渦巻いていた。
雪斎を失い、義元を失った今、織田信長を止められる人物はいるのだろうか。
その頃、足利義輝は一人で庭を眺めていた。
今川義元討死の報せは、将軍にも届いていた。
「織田信長...」
義輝は呟いた。
桶狭間で敗れた男が、ここまで成り上がるとは誰が想像しただろうか。
「義輝様」
近習が現れた。
「松永久秀様がお見えです」
義輝の目が鋭くなった。
松永久秀・・・戦国の梟雄と呼ばれる男である。
「通せ」
久秀が現れると、いつもの謹慎深い態度を取った。
だが、その目の奥に何かが光っている。
「将軍様、織田信長の件でご相談が」
「聞こう」
「信長が上洛したなら、三好三人衆は必ず抵抗するでしょう。その時、将軍様はいかがなさいますか?」
義輝は慎重に答えた。
「将軍として、秩序を保つのが務めだ」
「ほう」
久秀が微笑んだ。
「では、もし信長が将軍様を擁立して天下に号令する意図があったとすれば?」
義輝の心臓が跳ねた。
「それは真か?」
「分かりません。しかし...」
久秀は一歩前に出た。
「将軍様、織田信長という男は、他の戦国大名とは違います。あの男は、天下を狙っております」
「天下を?」
「はい。そして、天下を獲るには将軍の権威が必要です」
義輝は長い間沈黙していた。
やがて、静かに口を開いた。
「久秀よ、そなたの真意はいかに?」
久秀が膝をついた。
「私は、真の将軍をお支えしたいのです。三好三人衆の傀儡ではない、真の将軍を」
永禄六年六月。
織田信長は、ついに上洛の準備を整えていた。
岐阜城の評定の間で、重臣たちが集まっている。
今川に降伏した家臣たちが信長に許され、家臣として日々働いている。
「殿、上洛の軍勢は三万。足利将軍を奉じての大義名分も整いました」
秀吉の報告に、信長は満足そうに頷いた。
「よし。では出発だ」
「しかし」
半兵衛が咳き込みながら言った。
「三好三人衆は必ず抵抗してきます。特に松永久秀の動向が——」
「久秀は心配ない」
信長が断言した。
「あの男は勝ち馬に乗る。我らが優勢になれば、必ず寝返る」
「では、三好三人衆との戦いは避けられませんね」
「避ける必要はない」
信長の目が光った。
「むしろ好都合だ。京で一戦交えて勝利すれば、天下に我が力を示すことができる」
永禄六年九月。
織田軍が京都に迫った時、三好三人衆は抵抗を試みていた。
「織田勢、山科に到達!」
「兵力は?」
「三万を超える模様!」
長逸の顔が絶望的になった。
対する三好軍は一万そこそこ。
勝負にならない。
「将軍様は如何なされます?」
「将軍様は...、すでに織田方に」
長逸が愕然とした。
織田信長が足利義輝を味方したのだ。
「松永久秀も?」
「はい。すでに織田方に寝返りました」
長逸は天を仰いだ。
すべてが崩れ去っていく。
「これまでか...」
京都東山で、織田軍と三好軍の戦いが行われた。
結果は明白だった。
圧倒的な兵力差に加え、京の民衆も織田方に味方した。
三好三人衆の暴政に辟易していた民衆にとって、信長は解放者に見えたのだ。
「三好長逸、討ち取ったり!」
「三好政康、自害!」
「岩成友通、討死!」
三好三人衆の滅亡と共に、京都の制圧は完了した。
永禄六年十月一日。
足利義輝は、織田信長と初めて対面した。
御所の謁見の間で、二人は向かい合った。
「織田上総介信長にございます」
信長の挨拶は丁重だったが、その眼光には並々ならぬ気迫があった。
義輝は直感した。
この男は確かに格が違う。
「よう参った、信長」
義輝の言葉に、信長は深く頭を下げた。
「将軍様のお力添えあってこそ、上洛を果たすことができました」
「いや、そなたの力あってこそだ」
義輝は信長を見つめた。
「信長よ、そなたの望みは何だ?」
信長が顔を上げた。
その目に、隠しようのない野望が燃えている。
「天下にございます」
義輝の息が止まった。
ここまで率直に野望を語る戦国大名を、義輝は知らなかった。
「天下...」
「はい。乱世を終わらせ、強固な国を作りたいのです」
「そのために、将軍である我を利用すると?」
信長は静かに首を振った。
「いえ。義輝様と共に、新しい世を作りたいのです」
義輝は長い間、信長を見つめていた。
やがて、決意を込めて言った。
「分かった。織田信長、そなたに賭けるとしよう」
「ありがたき幸せ」
こうして、織田信長の天下統一への道が、本格的に始まった。
太原雪斎という知謀の巨人を失い、今川義元という東海の覇者を失った戦国の世に、新たな主役が登場したのである。
だが、信長の前途には、さらに強大な敵が待ち受けていた。
石山本願寺の顕如、甲斐の武田信玄、越後の上杉謙信...
真の天下分け目の戦いは、これから始まるのだった。
その夜、岐阜から駆けつけた半兵衛は、信長に静かに進言した。
「殿、上洛は成功しました。しかし、これからが本当の戦いです」
「分かっておる」
信長が答えた。
「この国には新しい秩序が必要じゃ」
「はい。しかし——」
半兵衛の言葉が途切れた。激しい咳き込みが始まったのだ。
「半兵衛!」
「大丈夫です」
半兵衛が血を拭った。
「ただ、時間がないということを痛感するのです」
信長の顔が曇った。
「半兵衛、そなたを失うわけにはいかぬ」
「殿」
半兵衛が微笑んだ。
「私がいなくても、殿には秀吉がおります。あの男ならば...」
その時、秀吉が部屋に入ってきた。
「殿、京の町は完全に我らのものとなりました!」
いつものように底抜けに明るい声だった。
「秀吉」
信長が振り返った。
「そなたに託したいことがある」
「何でございましょう?」
「天下じゃ!」
秀吉の目が輝いた。
戦国の世は新しい段階に入ろうとしていた。
第四幕 金ヶ崎の退き口
永禄十一年(一五六八)秋。
小谷城の奥座敷で、浅井長政は一人苦悩していた。
織田信長との同盟から六年、共に今川を倒し、共に京を制圧した。
だが今、その信長が越前朝倉攻めを強行しようとしている。
「殿」
遠藤直経が部屋に入ってきた。
「朝倉義景様より密書が届いております」
長政は書状を受け取った。
朝倉義景・・・浅井家三代にわたる盟友である。
『長政殿、織田信長が我が越前に攻め入るとのこと。浅井・朝倉両家の誼は三代に及ぶ。どうか、御一考あれ』
長政の手が震えた。
「直経、そなたはいかに思う?」
「お答えしにくいことですが...」
直経が慎重に言葉を選んだ。
「織田殿は確かに強大です。しかし、朝倉様との義を捨ててはなりませね」
長政は立ち上がった。部屋の奥には、先代長政(久政)の位牌があった。
「父上...」
長政は位牌に向かって跪いた。
「織田信長と手を結んだのは、近江を守るため。しかし今、その信長が朝倉様を滅ぼそうとしている。どうすればよいでしょうか...」
位牌は何も答えない。
だが、長政の心の中で、答えは既に決まっていた。
同じ頃、岐阜城では織田信長が朝倉攻めの軍議を開いていた。
「越前朝倉義景、上洛の命に応じず、将軍に対する不敬は明らか。討伐やむなし」
信長の言葉に、重臣たちが頷いた。
「兵力は?」
「三万。浅井殿の軍勢と合わせれば四万を超えます」
「長政の返事は?」
「まだ届いておりません」
信長の眉がわずかに動いた。
「遅いな」
その時、秀吉が口を開いた。
「御館様、浅井殿のことですが...」
「何だ?」
「朝倉との関係を考えますと、多少の躊躇いがあるやもしれません」
信長は秀吉を見つめた。
「秀吉、そなたは長政をどう見る?」
「義に厚い男です。それゆえに...」
「義か」
信長が呟いた。
「大義のために小義を捨てねばならぬこともある」
「ははっ」
「まあよい。長政は必ず来る。あの男は約束を違えぬ」
だが、信長の心の奥で、かすかな不安が芽生えていた。
永禄十一年十月。
織田軍は越前に侵攻を開始した。
一乗谷を拠点として、朝倉軍との本格的な戦いが始まった。
「敵は金ヶ崎に篭城の構え!」
「よし、一気に攻め上るぞ!」
信長の号令と共に、織田軍が前進する。
当初、戦況は織田軍が優勢だった。
だが、その時だった。
「御報告! 後方より大軍が接近!」
「何だと?」
信長が振り返った。
「浅井軍です! しかし...」
斥候の声が震えていた。
「しかし、何だ?」
「我が軍に向かって進軍してきます!」
信長の血が凍った。
「長政が...、裏切ったと?」
小谷城からの使者が、織田軍に到着したのはその時だった。
「織田信長殿に申し上げる!」
使者の声が戦場に響いた。
「浅井長政、ここに織田家との同盟を破棄し、朝倉義景殿と共に戦う所存!」
織田軍に衝撃が走った。
最も信頼していた男の裏切りである。
「わけを聞こう!」
信長自身が前に出た。
「浅井家は朝倉家と三代にわたる盟友。この誼を破ることはできません!」
信長の顔が歪んだ。
「長政...」
その夜、織田軍の本陣は大混乱に陥っていた。
「殿、すぐにご退却を! このままでは朝倉・浅井連合軍に挟撃されます!」
元康が必死に進言した。
「退却——」
信長が歯噛みした。
「まさか、長政がこのような...」
「殿」
秀吉が前に出た。
「猿めにお任せください!」
信長は長い間沈黙していた。
やがて、苦渋の決断を下した。
「退却する。しかし...」
信長の目が光った。
「必ず戻って来る。長政、覚悟いたせ」
翌日、織田軍の退却が始まった。
だが、朝倉・浅井連合軍の追撃は激しく、退却は困難を極めた。
「殿、このままでは全軍が殲滅されます!」
元康の報告に、信長の顔が青ざめた。
金ヶ崎から京都までの道のりは険しく、追撃軍に追いつかれるのは時間の問題だった。
「如何にすべきか...」
その時、秀吉が前に出た。
「御館様、猿めにお任せください」
「猿?」
「猿めが殿軍を務めます。御館様は先に京へお逃げください」
信長が驚いた。
殿軍とは、退却する軍の最後尾で敵の追撃を食い止める、最も危険な任務である。
元康が心配そうに言った。
「藤吉郎殿、それは...」
「御館様!」
秀吉がいつもの明るい笑顔を見せた。
「猿めがここで死んだとしても、殿が生きていれば織田家は安泰です。しかし、殿がここで死ねば、すべて終わり」
信長は軽く頷いた。
「猿に任す!」
「さあ、早く! もう時間がありません!」
秀吉の殿軍は、三千の兵で朝倉・浅井連合軍一万の追撃を食い止めた。
「秀吉様、敵が迫っております!」
「よし、ここで食い止めるぞ! 殿のお命をお守りするのだ!」
秀吉の声に、織田勢の士気が上がった。
だが、圧倒的な兵力差は如何ともしがたい。
「秀吉様、もう限界です!」
「まだじゃ! 殿は京に着いておられぬ!」
秀吉は血まみれになりながら戦い続けた。
その姿を見て、織田兵たちも必死に戦った。
その頃、京都では大きな動きがあった。
足利義輝が、三好残党と本願寺勢力の襲撃を受けたのである。
「義輝様、お逃げください!」
近習たちが必死に守ろうとしたが、敵の数が多すぎた。
「逃げるわけにはいかぬ」
義輝は刀を抜いた。
「我は征夷大将軍足利義輝である。戦国の世に終止符を打つまでは...」
義輝の剣技は見事だったが、多勢に無勢、ついに力尽きた。
「義輝様——!」
足利義輝の死は、戦国の世に大きな衝撃を与えた。
金ヶ崎からの退却路で、信長は義輝討死の報せを受けた。
「義輝が・・・討死?」
「左様にございます。三好の残党と本願寺勢力が結託して...」
信長の拳が震えた。
浅井に裏切られ、将軍は殺された。
すべてが崩れ去っていく。
「殿、藤吉郎様の殿軍、まだ持ちこたえております!」
家康の報告に、信長は我に返った。
「そうだ、猿が...」
信長は馬を返そうとした。
だが、家康が制止した。
「殿、藤吉郎殿の犠牲を無駄にしてはなりませぬ」
「しかし...」
「藤吉郎殿は、殿のために命を懸けているのです」
信長は歯を食いしばった。
そして、京都へと向かった。
三日後、秀吉の殿軍は役目を果たした。
信長の本隊が京に到着したことを確認すると、秀吉は残った兵と共に後退を開始した。
「藤吉郎様、お見事!」
「まだじゃ。まだ京都に着くまでは——」
だが、秀吉の体は限界だった。
何度も傷を負い、血を流し続けていた。
「藤吉郎様!」
家臣たちが支えた。
「大丈夫じゃ。殿がお無事なら、それでよい」
永禄十一年十一月。
京に戻った信長は、足利義昭を新将軍として擁立することを決めた。
義輝の弟である義昭は、興福寺で僧となっていたが、兄の死を受けて還俗した。
「義昭様、どうか将軍に」
信長の要請に、義昭は複雑な表情を見せた。
「兄上の仇を討つためならば...」
「必ずや」
こうして、足利義昭が第十五代将軍となった。
だが、義昭の心には、信長に対する恐れと警戒心があった。
岐阜城に戻った信長は、まず秀吉を見舞った。
「猿、ようやってくれた」
「御館様...」
秀吉は傷だらけの体で、それでも笑顔を見せた。
「御館様がご無事で何より」
「猿のおかげだ」
信長は秀吉の手を握った。
「次は長政に目にもの見せてやる。裏切りの代償を」
「御館様」
秀吉が真剣な顔になった。
「長政殿も、苦しんでおられたでしょう」
「何?」
「義と利、どちらを取るか。最後まで悩まれたはず」
信長は黙って聞いていた。
「だからこそ、許せないのです」
秀吉が続けた。
「中途半端な義で、殿を裏切るなど」
信長の目に、冷たい光が宿った。
「そうだ、猿。中途半端な義で天下は獲れぬ。長政に教えてやらねばならぬ」
同じ頃、小谷城では長政が深い後悔に沈んでいた。
「殿、織田軍は京に退却いたしました」
「そうか...」
長政の声には、勝利の喜びはなかった。
「殿、我らの勝利です」
「勝利?」
長政が苦笑いした。
「これが勝利か? 信長を裏切り、義を通した結果がこれか?」
家老たちが黙り込んだ。
「信長は必ず戻って来る」
長政が呟いた。
「次は、我らを滅ぼすために」
「殿...」
「わしは...、誤ったのかもしれぬ」
長政の言葉が、城内に重く響いた。
永禄十二年(一五六九)春。
半兵衛の病状が急激に悪化していた。
岐阜城の奥座敷で、最後の策を信長に授けていた。
「殿、浅井攻めの際は、必ず包囲戦で臨んでください」
「包囲戦?」
「はい。長政殿は義に殉じる覚悟を固めています。正面攻撃では、かえって団結を強めるだけです」
「では、どうする?」
「時間をかけて、じわじわと追い詰めるのです。義だけでは戦は勝てないということを、思い知らせるのです」
信長は頷いた。
「あい分かった。半兵衛の言う通りにしよう」
「ありがとうございます」
半兵衛が微笑んだ。
「これで、心置きなく」
「半兵衛!」
「御館様、藤吉郎殿をよろしく...」
半兵衛の声が途切れた。
織田家の知恵袋が、ついに息を引き取ったのである。
信長の慟哭が、岐阜城に響いた。
だが、信長の野望は決して折れなかった。
むしろ、失ったものの大きさが、信長の意志をより強固にしていた。
「長政よ、覚悟せよ。次は容赦せぬ」
金ヶ崎の退き口は、織田信長にとって屈辱的な敗北だった。
だが、同時にそれは、真の天下人となるための試練でもあった。
裏切りの痛みを知り、忠義の重さを感じた信長は、もはや以前の信長ではなかった。
戦国の世は、最終局面へと向かっていく。
終幕 比叡山の炎
元亀元年(一五七〇)秋。
比叡山延暦寺の根本中堂で、天台座主覚恕が深い憂いに沈んでいた。
織田信長の勢いは止まることを知らず、ついに浅井・朝倉を包囲し始めている。
「覚恕様」
若い僧が駆け寄ってきた。
「石山本願寺の顕如上人より使者が参りました」
「通せ」
やがて現れたのは、本願寺の下間頼廉だった。
「覚恕様、顕如様よりの親書をお持ちいたしました」
覚恕は書状を受け取った。
顕如の文字は力強く、決意に満ちていた。
『織田信長、仏敵なり。今こそ仏法守護のため、力を合わせて立ち向かうべし』
「顕如様のお気持ちは分かる」
覚恕が呟いた。
「しかし、比叡山は...」
「覚恕様」
頼廉が前に出た。
「信長は既に伊勢長島の一向宗徒を皆殺しにしております。このまま放置すれば、我らも滅びます」
覚恕の手が震えた。
信長の残虐さは、都にまで伝わっていた。
「分かった。顕如様にお伝えせよ。比叡山も、信長と戦う覚悟である」
同じ頃、小谷城では浅井長政が最後の軍議を開いていた。
「殿、織田軍の包囲は完成間近です」
遠藤直経が地図を指し示した。
「北国街道も、若狭街道も、すべて封鎖されました」
長政は黙って地図を見つめていた。
織田軍五万が小谷城を完全に包囲している。
補給路は断たれ、援軍の見込みもない。
「朝倉義景様からの援軍は?」
「金ヶ崎も包囲されており、身動きが取れません」
長政は深く息を吐いた。
「そうか...。ついに、この時が来たか」
「殿」
直経が進み出た。
「まだ、降伏という道が——」
「否」
長政が首を振った。
「信長を裏切った時点で、我らに降伏の道はない」
長政は立ち上がった。
「信長は必ず我らを根絶やしにする。ならば...」
長政の目に、静かな決意が宿った。
「武士として、最後まで戦うのみ」
岐阜城では、織田信長が比叡山攻めの最終準備を進めていた。
「御館様、比叡山の僧兵三千が浅井・朝倉に味方するとの報告です」
秀吉が報告した。
「やはりな」
信長が冷笑した。
「坊主どもも、最後は欲に駆られる」
「殿、しかし比叡山は...」
家康が慎重に言った。
「天台宗の総本山です。攻撃すれば、全国の寺社が敵に回ります」
「だからこそだ」
信長の目が光った。
「旧い権威をすべて叩き潰さねば、新しい世は来ぬ」
重臣たちが息を呑んだ。
信長は続けた。
「雪斎。あの男が教えてくれた。策と知恵だけでは、世は変わらぬ。時には、すべてを焼き払う炎が必要なのだ」
信長の言葉に、一同が静まり返った。
「準備はよいか?」
「はっ」
秀吉が答えた。
「浅井・朝倉の完全包囲と、比叡山攻撃を同時に行います」
「よし」
信長が立ち上がった。
「ついに決着の時だ」
元亀元年九月十二日、夜明け。
比叡山の麓に、織田軍一万が陣を敷いた。
総大将は明智光秀、副将は羽柴秀吉である。
「光秀、準備はよいか?」
「はい、御館様」
光秀が答えた。
「しかし...」
光秀の顔に、苦悩の色が浮かんでいた。
「何だ?」
「比叡山には、多くの学僧や童子もおります。果たして...」
「光秀」
信長が光秀を見た。
「金柑の気持ちは分かる。しかし、放っておけば世は変わらぬ」
光秀は黙っていた。
「半兵衛が言っていた」
信長が続けた。
「『変革には犠牲が伴う。しかし、その先に新しい世がある』と」
光秀の拳が握られた。
「分かりました、御館様」
比叡山攻撃が開始されたのは、同日の午の刻だった。
「南無阿弥陀仏——!」
僧兵たちが薙刀を振るって抵抗したが、織田軍の鉄砲の前には為す術がなかった。
「火をかけよ!」
信長の命令と共に、堂宇に火が放たれた。
千年の歴史を持つ建物が、次々と炎に包まれていく。
「ひどい・・・あまりにもひどい」
光秀が呟いた。
多くの僧侶や学僧が炎に巻かれて死んでいく様は、まさに地獄絵図だった。
だが、信長の表情は変わらなかった。
「これが新しい世を生む炎だ」
信長の言葉が、燃え盛る比叡山に響いた。
同じ日、小谷城でも最後の戦いが始まっていた。
「殿、もはや城内への侵入を許してしまいました!」
長政は刀を抜いた。
「分かった。ここからは、武士の死に様を見せるのみ」
長政は城の最上階へと向かった。
そこには、妻のお市の方が待っていた。
「市...」
「長政様」
お市が振り返った。
「これで、お別れですね」
「すまぬ...。そなたを幸せにできなかった」
「いえ」
お市が微笑んだ。
「長政様の妻であったこと、市は誇りに思っております」
長政は市を抱きしめた。
「市、そなたと子たちは信長の元へ行け。あの男はそなたたちには情けをかける」
「しかし...」
「さらばじゃ」
長政の言葉に、お市は涙を流した。
やがて、織田軍が最上階に到達した。
「浅井長政! 首を渡せ!」
織田兵たちが叫んだ。
「ここにいるぞ」
長政が現れた。
その姿は凛として、最後まで武士の誇りを失っていなかった。
「我は浅井長政。信長に一言申す」
「何じゃ?」
「義を貫いて死ぬこと、後悔はしておらぬ。しかし...」
長政の目に、深い悲しみが宿った。
「信長よ、そなたの道の先に、本当に太平の世があるのか?」
長政の問いに、織田兵たちは答えることができなかった。
長政は自らの刀で腹を切り、壮絶な最期を遂げた。
比叡山と小谷城、両方の戦いが終わったその夜。
信長は今浜城の天守閣で、一人佇んでいた。
眼下には、まだ燃え続ける比叡山の炎が見えていた。
「御館様」
秀吉が現れた。
「終わりましたな」
「ああ...。ついに終わった」
信長の声には、疲労が滲んでいた。
「しかし、御館様」
秀吉が慎重に言った。
「これで本当に宜しかったのでしょうか?」
信長は振り返った。
「猿、おまえも疑うのか?」
「いえ、そうではありません。ただ...」
秀吉は言葉を詰まらせた。
「この戦で無辜の民が多く死にました。これが、新しい世のためとはいえ...」
信長は長い間沈黙していた。
やがて、静かに口を開いた。
「猿、覚えているか? 雪斎との最後の対局を」
「はい」
「あの時、雪斎はこう言った。『策だけでは世は変わらぬ。時には大胆な一手が必要だ』と」
信長の目に、複雑な光が宿った。
「わしは、雪斎に敗れた。あの戦がわしを大きく変えたのじゃ。」
「御館様」
「わしは覚悟を決めた」
信長が振り返った。
この道の先に、太平の世があると信じて。
その時、家康が現れた。
「信長殿、石山本願寺の顕如が降伏を申し出ております」
「何?」
「比叡山の焼き討ちを見て、恐れをなしたようです」
信長は苦笑いした。
「結局、坊主どもも保身か」
「どういたしますか?」
信長は考え込んだ。
やがて、決断を下した。
「受け入れよう。ただし、条件がある」
「条件とは?」
「石山本願寺を明け渡し、顕如は紀州に隠居すること。そして二度と政治に関わらぬこと」
家康が頷いた。
「承知しました」
こうして、織田信長の畿内制圧が完了した。
比叡山焼き討ちの衝撃は全国に伝わり、諸大名は信長の恐ろしさを思い知った。
だが、信長の心には、深い孤独感が宿っていた。
「雪斎...」
信長が呟いた。
「雪斎ならば、如何なる道を進んだであろうか...」
信長の拳が握られた。
「わしには、この道しか見えなかった」
元亀二年(一五七一)春。
京の二条御所で、足利義昭が密かに諸大名に密書を送っていた。
「信長包囲網を築け」
義昭の側近が言った。
「武田信玄、上杉謙信、毛利輝元。皆、信長を恐れています。今こそ、連合を」
義昭の目に、野心の光が宿った。
「そうだ。私が真の将軍として、この国を治めるのだ」
だが、義昭は知らなかった。
この密書の内容が、信長の耳に入っていることを。
岐阜城で報告を受けた信長は、静かに笑った。
「義昭も、結局はわしに牙を剥くか」
「御館様、どうなさいますか?」
秀吉が尋ねた。
「決まっておる」
信長の目が光った。
「義昭を京から追放する」
「しかし、義昭は将軍です」
「将軍?」
信長が冷笑した。
「お飾りの将軍など、もはや不要じゃ」
信長は立ち上がった。
「新しい世には、新しい秩序が必要なのじゃ」
元亀三年(一五七二)、ついに信長と義昭の決裂が表面化した。
「義昭を二条御所から追放せよ!」
信長の命令により、織田軍が京都に進軍した。
義昭は抵抗したが、圧倒的な兵力差の前に屈服せざるを得なかった。
「信長!我は将軍なるぞ!」
義昭が叫んだ。
「義昭」
信長が冷然と答えた。
「将軍の時代は終わっておる」
「何じゃと?」
「これからは、実力あるものが天下を治める時代じゃ。血筋や家格など、もはや何の意味もない」
義昭の顔が青ざめた。
信長は続けた。
「お飾りの将軍家など、もう不要じゃ」
こうして、室町幕府は事実上滅亡した。
その夜、信長は安土城の建設予定地に立っていた。
琵琶湖を見下ろすこの地に、新しい城を築く計画である。
「御館様」
秀吉が近づいてきた。
「安土の構図ができました」
信長は受け取った。
そこには、これまでの城とは全く異なる、斬新な城が描かれていた。
「天守閣の最上階を黄金に?」
「そうだ」
信長が答えた。
「新しい世の象徴となる城だ」
「しかし、これほどの城を築けば、諸大名の反発が——」
「構わん」
信長が遮った。
「恐れさせるのだ。わしの力を見せつけて」
秀吉は黙っていた。
「猿、そなたはわしを止めるのか?」
「いえ」
秀吉が首を振った。
「御館様の決めた道ならば、最後まで従います」
信長は微笑んだ。
天正元年(一五七三)、安土城の建設が始まった。
同時に、信長は「天下布武」の朱印を使い始めた。
「天下布武・・・武によって天下を統一する」
信長の宣言は、全国の大名に衝撃を与えた。
もはや、誰も信長を止めることはできないだろう。
「殿」
ある日、光秀が信長の元を訪れた。
「一つ、お尋ねしたいことが」
「何じゃ?」
「殿は、本当にこの道で良いとお思いですか?」
信長は光秀を見つめた。
「光秀、そなたも疑うのか?」
「疑ってはおりませぬ。ただ...」
光秀が言葉を選んだ。
「あまりにも多くのものを失ったような気がするのです」
「失ったもの?」
「義、慈悲、伝統」
信長は長い間沈黙していた。
やがて、静かに答えた。
「光秀、わしも失いたくはなかった。しかし...」
信長の目に、深い悲しみが宿った。
「この戦国の世を終わらせるには、それしか道がなかったのじゃ」
「殿...」
「雪斎が死に、義輝が死に、長政も死んだ。皆、古い世界の人間じゃ」
信長が続けた。
「わしは生き残った。新しい世を作るために」
光秀は何も言えなかった。
「光秀、わしを恨むなら恨むがよい。じゃが、止めることはできぬ」
天正十年(一五八二)春。
ついに安土城が完成した。
琵琶湖を見下ろす壮麗な城は、まさに新時代の象徴だった。
「見事ですな、御館様」
秀吉が感嘆の声を上げた。
「あぁ...これで、新しい世の始まりじゃ」
信長は天守閣の最上階から、遠くを見つめていた。
そこには、かつて今川義元と戦った桶狭間の古戦場が見えているような気がした。
「雪斎...」
信長が呟いた。
「雪斎の策は確かに見事だった。じゃが、時代はそなたの想像を超えて動いておる」
風が吹き、信長の髪を揺らした。
「わしは選ばれたのだ。この乱世を終わらせるために」
その夜、信長は一人で書状を認めていた。
それは、まだ見ぬ後世の人々への遺書のようなものだった。
『余は織田信長なり。戦国の世に生まれ、戦国の世を終わらせんとするもの也。
多くの命を奪い、多くの伝統を破壊した。されど、それは新しき世を生むために必要なる業なり。
雪斎、義輝、長政——皆、立派な人物であった。しかし、奴らの生きた世界はもはや過去のもの。
余は鬼となろう。修羅となろう。それが、天の定めたる余の使命なり。
後世の人よ、余を裁くがよい。されど、この道なくして太平な世は来たりえざることを、知るべし』
信長は筆を置いた。そして、琵琶湖の方角を見つめながら、静かに呟いた。
「天下布武——もうすぐ、完成する」
しかし、信長は知らなかった。
この時、明智光秀が密かに反旗を翻すことを。
「殿は変わってしまわれた」
光秀が呟いた。
「あの優雅で、義に厚かった殿は、もうおられぬ」
光秀の目に、悲しい決意が宿った。
「殿...お止めするのも、我が忠義」
運命の歯車が、最後の回転を始めようとしていた。
だが、それはまた別の物語である。
織田信長は、ついに戦国最大の覇王となった。
比叡山の炎は、古い時代を焼き尽くし、新しい時代の扉を開いた。
雪斎の策と、信長の執念。
二つの力が激突した戦国の世は、ついに信長の勝利で幕を閉じようとしている。
しかし、真の太平はまだ遠い。
覇王となった信長を待つのは、更なる孤独と、運命の皮肉だった。
天正十年六月二日、早朝。
本能寺の庭で、織田信長は茶の湯を楽しんでいた。
まもなく毛利攻めに出陣する予定だったが、この朝だけは、久しぶりに心静かな時を過ごしていた。
「殿」
小姓が現れた。
「明智光秀様が、大軍を率いて京に向かっているとの報告です」
「光秀が?」
信長が茶碗を置いた。
「毛利攻めの援軍か?」
「それが...本能寺に向かっているようです」
信長の表情が変わった。
「であるか...」
その時、寺の外から鬨の声が聞こえてきた。
「織田信長、天誅!」
光秀の声だった。
信長は静かに立ち上がった。
そして、不思議な微笑みを浮かべた。
「光秀。そなたもまた、運命の駒だったか」
信長は弓を取った。
最後の戦いが始まろうとしていた。
「面白い。これもまた、天の采配か」
本能寺の炎が上がり始めた時、信長の脳裏に雪斎の最後の言葉が蘇った。
『うつけ殿、策も執念も、すべては天の手の内にある』
「雪斎...そなたの言う通りだった」
信長の笑い声が、燃え盛る本能寺に響いた。
戦国の世は、最後の皮肉を持って、真の終焉を迎えようとしていた。
完
創作歴史小説「夜明けに鳴る鼓 -豊臣秀長異伝-」

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