【待ち受ける2025年9月】ノストラダムス大予言の新たな解釈と真相
1999年7月の「恐怖の大王」は訪れませんでした。
しかし...。
ノストラダムスの予言は本当に終わったのでしょうか?
近年囁かれる「2025年9月説」の真相とは?
本記事では、歴史的背景、予言の解釈、そして私たちがなぜ予言に惹かれるのかをエンターテイメントとして考察します。
ノストラダムスと「諸世紀」:曖昧さのベールに包まれた予言
「ミシェル・ド・ノートルダム、通称ノストラダムス(1503-1566年)」は、ルネサンス期のフランスに生きた医師、占星術師、そして詩人でした(ノストラダムス – Wikipedia)。
ノストラダムスの名を不滅のものとしたのは、主著『ミシェル・ノストラダムス師の予言集(通称『予言集』または『百詩篇集』)』です。この書物は、主に四行詩形式で書かれた942篇の詩から成り、その内容は極めて難解かつ象徴的です。ラテン語、ギリシャ語、古フランス語などが混在し、意図的なアナグラム(文字の並べ替え)や隠喩が多用されているため、一義的な解釈はほぼ不可能とされています。
日本においては、五島勉氏の著作『ノストラダムスの大予言』シリーズ(1973年~)によって、「諸世紀」という訳語とともに、ノストラダムスの名が広まりましたが、この「諸世紀」(原題:Les Centuries)は本来「百詩篇集」を意味し、「世紀」という時間単位を示すものではありません(諸世紀 – Wikipedia)。
この曖昧さと難解さこそが、後世の人々による多様な解釈を生み出す土壌となりました。
1999年7月「恐怖の大王」:世紀末の一大現象とその顛末
ノストラダムスの予言の中で最も有名になったのは、疑いなく「1999年7の月」に関するものでしょう。百詩篇第10巻72番にはこう記されています。
L’an mil neuf cens nonante neuf sept mois,
Du ciel viendra un grand Roy d’effrayeur:
Ressusciter le grand Roy d’Angolmois,
Avant apres Mars regner par bonheur.(日本語訳例:1999年7の月、空から恐怖の大王が来るだろう。アングーモワの大王を蘇らせ、マルスの前後に首尾よく支配するために。) (5月4日は、ノストラダムスの日 – 歴史を揺るがす大予言 信じるもの… – QUI より詩の引用)
この詩は、日本では五島勉氏の解釈を通じて「1999年7月に人類が滅亡する」というセンセーショナルな形で広まり、社会現象とも言えるほどの大きなインパクトを与えました(ノストラダムスの大予言 – Wikipedia)。
世紀末という時代背景も相まって、多くの人々が不安を覚え、様々な憶測が飛び交いました。しかし、結果として1999年7月は特別な大災厄もなく過ぎ去り、「予言は外れた」というのが一般的な認識になりました。
なぜ2025年9月説が浮上するのか? 解釈の変遷と現代の不安
1999年の「終末」が訪れなかった後も、ノストラダムスの予言解釈は終わっていません。
ノストラダムスの詩の曖昧さは、新たな日付や出来事に結びつけることを可能にします。
近年、ネットを中心に「2025年」という年が、新たな「危機」の年として囁かれています。
その中で「2025年9月」という具体的な月まで言及する説も散見されます。
しかし、ノストラダムスの『百詩篇集』の中に、「2025年9月」を明確に指し示す詩句は、現在のところ学術的に確認されていません。
では、なぜこのような説が浮上するのでしょうか?
- 予言の再解釈と新たな日付の模索:1999年が過ぎたことで、一部の解釈者は予言の成就時期を未来へとスライドさせました。ノストラダムスの詩には具体的な年号が記されているものは極めて少なく、多くは象徴的な表現であるため、解釈者の意図や時代背景によって、どの詩句をどの出来事に結びつけるかが大きく変わります。
- 現代社会の不安感の投影:気候変動、パンデミック、国際紛争の頻発、経済不安など、現代社会は多くの不確実性を抱えています。こうした不安感が、過去の予言に新たな意味を見出そうとする動きと結びつくことがあります。「2025年」という年が注目される背景には、昨今の世界情勢が影響している可能性が考えられます。
- 他の予言との混同・融合:ノストラダムス以外の予言者や、スピリチュアルな情報源から、ノストラダムスの名声と結びつけられ、あたかもノストラダムス自身が予言したかのように広まることがあります。
漫画家のたつき諒氏の作品『私が見た未来』では2025年7月に関する予知夢が描かれており、これが社会的な関心を集めています(「7月に日本で大災害が起こる」「想定をはるかに超える壊滅的な…」――ネット上を騒がせる”大災難予言” – 東洋経済オンライン)。
直接的な関連はなくとも、こうした情報が「2025年危機説」全体の雰囲気を醸成し、ノストラダムス予言の新たな解釈の文脈で参照されることがあるかもしれません。 - 数字の象徴的解釈:ノストラダムスの詩に含まれる数字や天体の配置などを、特定の方法で計算・解釈し、新たな日付を導き出そうとする試みは絶えません。「2025」や「9」といった数字が、何らかの詩句から象徴的に読み解かれる可能性はあります。
「2025年9月」という具体的な日付がどこから来たのか、その明確な典拠は不明ですが、上記のような要因が複合的に絡み合い、新たな「終末予言」として形成されているのかもしれません。
新解釈! 「1999年7月」ではなく「2025年9月」!?
1999年とは西暦?
実は、イエス・キリストが生まれたのは紀元前4年なんです。
そして、洗礼を受けたのは、30歳の頃(西暦紀元26年)だったんです。
もし、イエス・キリストが洗礼を受けた年を元年として1999年後だとしたら?
1999年の解釈は、1999年+26年=西暦2025年になるのかも知れません。
7の月の解釈
「7の月」という表現は、果たして「7月」のことなのでしょうか?
9月の英語表記は「September」ですが、語源はラテン語で「7番目の月」を意味する「Septem」が由来です。
これは、古代ローマ暦では3月を1年の始まりとしていたため、7番目の月は9月となります。
出典:ECCオンライン
もしかすると、「7の月」は「7番目の月」、つまり「9月」なのかも知れません。
ノストラダムスの大予言は「1999年7月」ではなかった?
- 1999年は、イエス・キリストが洗礼を受けてから1999年後の西暦2025年?
- 7の月は、7番目の9月?
予言解釈のメカニズム:私たちはなぜ「当たる」と感じるのか
ノストラダムスの予言が人々を魅了する要因として、心理的なメカニズムが働いています。
- 曖昧性と多義性:予言の言葉が抽象的であればあるほど、後から起きた出来事に当てはめやすくなります。これは「バーナム効果」(誰にでも該当するような曖昧で一般的な記述を、自分だけに当てはまると捉えてしまう心理現象)にも通じます。
- 確証バイアス(Confirmation Bias):人は自分の信じたい情報を集め、反する情報を無視する傾向があります。一度「ノストラダムスは当たる」と考えると、的中したとされる事例ばかりに目が行き、外れた多くの予言や解釈は忘れ去られがちです。
- 後知恵バイアス(Hindsight Bias):的中後、「やはりあの詩はこのことを言っていたのだ」と解釈するのは容易です。あたかも最初から分かっていたかのように感じてしまいます。
- メディアと大衆文化の影響:センセーショナルな解釈はメディアを通じて広まりやすく、大衆の関心を引きつけます。繰り返される報道は、予言の信憑性を高める効果を持ちます。
学術的な視点では、ノストラダムスの予言は具体的な未来を予知したものではなく、むしろノストラダムスの時代の歴史的知識、古典文学、聖書などからの影響を受けた詩的表現であり、その解釈は読み手の主観に大きく左右されるとされています(Nostradamus – Wikipedia (English)、学術的評価に関する記述を参照)。
終末予言の歴史と社会心理:繰り返される「世界の終わり」
「世界の終わり」を告げる終末予言は、ノストラダムスの他、歴史を通じて数多く存在しました。
マヤ暦の終わりとされた2012年にも、大規模な天変地異が起こるという説が広まりました。
終末予言が繰り返される社会心理学的な背景は何でしょうか?
- 不確実性への対処メカニズム:予言は、不確かな未来に対して一定の「説明」を与え、不安を具体的な形に変換します。
- 社会的結束の強化:危機的状況では人々が結束する傾向があり、終末予言は共同体の絆を強める場合があります。
- 希望と再生の物語:多くの終末論は、単なる破滅ではなく、その後の「新世界」の到来を含みます。このパターンは宗教的な救済物語と重なり、心理的な慰めを与えます。
- コントロール感の回復:「いつ終わるのか」を「知っている」と感じることで、人は不確実性に対するコントロール感を取り戻します。
- エンターテイメント性: 現代では、終末予言は頻繁にエンターテイメントとして魅了されます。ハリウッド映画や小説、ゲームなどでは「終末」は人気のテーマです。
過去に「外れた」予言が新たな形で蘇り、別の日付に「スライド」していく現象は、人間の心理的な欲求を反映しているのかもしれません。
2025年9月に向けて:冷静な視点と楽しみ方
「2025年9月」がノストラダムスの真の予言だったのか否か——これはエンターテイメントとして楽しむ分には魅力的な謎です。
しかし、現実的な視点からは、下記のようなアプローチが有効でしょう。
- 知的好奇心の対象として:予言解釈の多様性や歴史的背景を探ることは、文化史や心理学の観点から非常に興味深い学びとなります。
- 批判的思考の訓練として:「なぜこの説が説得力を持つように感じるのか」「どのような証拠や論理が使われているか」を分析することは、メディアリテラシーを高める良い機会となります。
- 文化現象として:予言が社会に与える影響や、人々がそれにどう反応するかを観察することは、現代社会の一側面を理解する手がかりになるでしょう。
- 想像力の源泉として:SF作品や創作のインスピレーションとして、「もしも」の世界を想像することには価値があります。
結局のところ、「2025年9月」がノストラダムスの真の予言だったのかどうかは、厳密な歴史的証拠よりも、私たちがそれをどう解釈し、どのような意味を見出すかにかかっているのかもしれません。
そして、予言の「的中」を心配するよりも、現実の課題に向き合い、より良い未来を作り出すための行動こそが重要なのではないでしょうか。
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